
Ⅰ. 創世記1章と2章の創造、そして3章に現れる人間の堕落
張ダビデ牧師は、創世記1章と2章に描かれている創造の物語が、あらゆる信仰と神学の出発点であることを強調する。彼によれば、「はじめに神は天地を創造された」(創1:1)という御言葉こそ、宇宙万物の起源と存在理由、さらには人間の根本的な目的と運命を洞察する基盤となるのだという。この創造のドラマにおいて、神は混沌の中に光を宣言し、その光によって時間と空間が区別され、天(Heavens)と地(Earth)が秩序正しく形成されていく。創造のすべての場面は神の善なるご性質を反映しており、その最後に神のかたちに創造された人間が登場する。ここで張ダビデ牧師は、人間が持つ尊いアイデンティティ(神のかたち)と特別な使命(万物を治め、創造世界を美しく世話する役割)を説き明かす。
同時に、創世記1章と2章は神の愛、そしてエデンの園で人間が享受できた完全な状態を提示している。神はアダムにほぼすべてを許容しつつも、善悪を知る木の実だけは食べてはならないという禁令を与え、そこに人間の自由意志と責任を付与したと解釈される。つまり、張ダビデ牧師は「神は人間をロボットのようにリモートコントロールなさろうとはしなかった。知・情・意を持つ人格的存在として創造されたがゆえに、自らみ言葉を守り、主権者である神を愛し従うことができるように設計されたのだ」と語る。しかし問題は、その人間が天の御心に従って自由を正しく行使する代わりに、堕落を選んだという点である。創世記3章に登場する「蛇」こそがその転機となる。
張ダビデ牧師は、創世記3章1節にある「さて、蛇は、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで最も狡猾であった」という表現が極めて重要だと指摘する。まず、彼によれば蛇が神によって造られた被造物であることがはっきりと宣言されている点に注目すべきだという。これは、はじめから善なる神と悪なる神が並立して存在したという二元論的視点(いわゆる「太初から善神と悪神が拮抗していた」という考え)が、聖書的には誤りであることを示すものだ。張ダビデ牧師は「聖書の証言によれば、悪の根源は神と対等な何か別の悪神ではなく、神が創造なさった存在のうちから堕落してしまったサタンである。つまり、本来『野の獣』だった蛇が、その狡猾な知恵をもって反逆しサタンとなったが、それは決して神の絶対的主権を損なうものではない」と説く。そして、創世記3章の蛇の姿は、単なる生物学的な蛇ではなく、預言書や新約聖書で「悪魔」「サタン」と呼ばれる霊的存在を象徴していると見る。ゆえに「大きな竜、すなわち昔の蛇であるサタン、悪魔」(黙示録12章9節)と宣言されている部分が創世記3章の蛇と一致すると教えている。
続いて、彼は黙示録12章を通して、天で神の秩序に反逆したサタンがいかに追い出されたかを説明する。サタンは、頭に七つの冠をいただく大きな赤い竜として描写され、その尾で天の星の3分の1を引き落とすほど強大な勢力を持つ。しかしその「大きな竜」は結局、天から追放されて地に投げ落とされたというのが聖書の証言であり、そのときともに追放された者たちがこの世の支配者(Rulers)や権威(Powers)の領域に陣取り、世の潮流を染め、人々を目暗ましにし混乱させるのだとエペソ6章を根拠に解説する。張ダビデ牧師は、こうした霊的背後勢力の存在こそが聖書的世界観を理解するうえでの重要な鍵だと言う。人間がさまざまな悪を行う真の理由は、単に肉体的本能や環境によるものではなく、本質的にはサタンに惑わされたからだ、というのである。とはいえ、それで人間の責任がすべてサタンに転嫁されるわけではない。人間も自分自身の自由意志を通して、すなわち「あなたのせいでも、神のせいでもなく、私のせいです」という告白とともに罪を悔い改める必要があることを同時に強調する。「神が蛇を造ったせいでなぜこんな堕落が起こったのか」と問うとき、自由意志を持つ霊的存在が反逆したという答えに行きつく。また、「私たちを誘惑に陥れるのは神ではなくサタンの奸計だが、そのサタンの誘惑を受け入れるかどうかは私たちの選びにかかっている」と張ダビデ牧師は力説する。
彼はヤコブの手紙1章13節「誘惑に遭うとき、『私は神に誘惑されている』と言ってはならない。神は悪に誘惑されることがなく、ご自身でもだれをも誘惑なさらない」という御言葉を挙げ、信仰者であれば「すべての問題を神に押し付ける誤りを犯してはならない」と語る。この世の多くの苦痛と試練の背後には狡猾な蛇、すなわちサタンが隠れて働いていることを知ると同時に、人間自身もその責任から決して自由ではないという自覚が必要だというのである。張ダビデ牧師は、人間の罪を正当化または合理化しようとして「それは最終的に私たちがより大きな恵みにあずかるために、神が堕落を許されたのだ」という解釈をとるのは危険だと警告する。そのように語ると、結局は被造物(人間)の責任を創造主(神)に転嫁する結果になりかねないからだ。それよりも、聖書が明確に示しているように、「善悪の実の禁令」を与えられた神は少しも悪ではなく、人間との間に「愛の関係」を結びたかったのに、人間がサタンの誘惑に自主的に屈服したために罪が入ったという解釈のほうが妥当だと彼は語る。
張ダビデ牧師は、神が善く造られた天使的存在が堕落し、サタン・悪魔・蛇・竜となったことを、さまざまな聖書箇所から確証してみせる。それが救いの中心テーマともつながるのだという。すなわち、人間は本来神の栄光の中で生きていたが、サタンに惑わされ、罪が世界に入ったことによって死がもたらされた。創世記3章以降、全宇宙はこの堕落の影響下でうめき苦しんでおり(ローマ8:22参照)、ただ神の御子イエス・キリストの十字架と復活によって救いが告げ知らされるというメッセージが聖書全体を貫いている。彼にとって、創世記3章の蛇の事件は、単なる「昔あのとき、あの場所(there then)で起こった悲劇」ではなく、「今ここ(here now)の私たちにも日々起こりうる、実際的で切実な誘惑」を体感的に示すものであるとする。ゆえに信仰者は「イエスとは何者なのか、そして自分は何者なのかを知り、さらに自分に立ち向かうサタンの実体とはいかなるものかをはっきりと認識しなければならない」と彼は強く訴える。
彼がときどき例として挙げるのは、福音を伝えるとき、人々の中に潜んでいた闇の霊がスッと抜けていく瞬間を目撃したという体験談である。張ダビデ牧師は大学で聖書を教えていた際、渋々連れて来られただけのある学生がみ言葉を聞いているとき、その人の中にあった暗い影が出て行くのを霊的に感じ取ったことがある、と証言する。「私が何か特別なことをしたのではなく、聖霊の権威がみ言葉とともに伝えられたとき、サタンはもはやその魂をつなぎ止められなかったのです」と告白する。このようにサタンは人間の知・情・意を堕落させ、神から遠ざけるため、さまざまな「狡猾な知恵」を駆使する。しかしその裏を見れば、「サタンの実態はそれほど大したものではなく、イエスの御名の前で震え上がる存在」であるという。そこで彼は黙示録12章9節の「この大きな竜は追い落とされた。すなわち、悪魔とも呼ばれ、サタンとも呼ばれ、全世界を惑わす者である昔の蛇である」というみ言葉を特に強調し、信者たちはすでに勝利した戦いに参加していることを知り、勇気を持つべきだと教えている。
しかし、勇気だけでは不十分であり、パウロがエペソ6章10節以下で語るように「神のすべての武具」を身に着けよという命令通り、信仰による武装が必要だと勧める。真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の履物、信仰の盾、救いのかぶと、御霊の剣(神のことば)、そして絶えざる祈りによって覚醒していなければ、狡猾な蛇の誘惑に陥りやすいというのである。張ダビデ牧師は「なぜまずエバがサタンの誘惑を受けたのか?」という問いを投げかけ、本文(創世記2章と3章)を注意深く読むと、アダムは神から直接禁令を与えられたのに対し、エバはアダムを通じて伝え聞いただけの二次的な知識だったと解釈する。これはあくまで聖書に描かれた順序に基づく論理的アプローチであるものの、彼は「み言葉を直接受け深く悟った者は、そうでない者よりも誘惑に強い可能性がある。エバが弱かったのは女性だからではなく、み言葉を深く『体得』していなかったことが原因」と説明する。したがって現代の信仰者も、直接的に聖書を聞き、読み、深く悟り、それを日々の生活で繰り返し適用することで霊的戦いの武装をせよ、と助言する。
結局、張ダビデ牧師が提示する結論は、蛇の狡猾さであれ人間の弱さであれ、これらすべてを追い出し打ち勝つ鍵は、ただキリストの恵みのうちにある、ということである。サタンは人間を破滅へと導こうとするが、人間は神の子として子の権威(ヨハネ1:12)を享受できる。これはイエス・キリストを信じ受け入れるとき与えられる約束であり、創世記3章15節の「女の子孫が蛇の頭を踏み砕くであろう」という原初の福音はイエスにおいて成就したのだ。悪魔が狙うのは信者の「かかと」を傷つける程度にすぎず、その最終的敗北はすでに十字架と復活によって決定づけられたというのが、彼の確信である。したがって彼は、この聖なる戦いの最終勝利がすでにイエス・キリストの十字架と復活によって確定している事実を強調し、信仰によってその勝利にあずかるよう力強く宣言する。そして信徒たちに「私のせいです」という悔い改めと、「イエスの権威と力」を帯びてサタンに縛られないようにと強く勧める。
Ⅱ. 主の祈りと「私たちを試みに遭わせず」という祈りの意味
張ダビデ牧師は、創世記3章で蛇がエバを誘惑する過程を説教する際、主の祈りのある一節と深く結びつけている。つまり、「私たちを試みに遭わせず、悪からお救いください」という主の祈りの最後の部分こそ、創世記3章に登場するサタンの戦略と、それにどう対処すべきかを直接的に扱った核心的な祈りであるという。彼は、この祈りの構造をいくつかの方法で区分できるが、最もシンプルに「神の御名と御国と御心を求める前半部分、そして私たちの日ごとの糧と罪の赦し、試みからの救いを願う後半部分」に分かれると話す。そのうち「私たちを試みに遭わせず、悪からお救いください」というフレーズが、蛇の狡猾さに敗北した創世記3章と直接つながっているのだという。
彼は「試みがやってくるとき、人間は簡単にそれを神のせいにしがちだ。しかしヤコブ書が語るように、神は私たちを誘惑なさらない。誘惑を仕掛けるのはサタンの働きであり、自分の欲望がはらんで罪を生むのだ」と言う。したがって主の祈りを通してイエスが教えておられるのは、信者であっても自らの弱さを認め、「神よ、どうかこの誘惑に負けないように、サタンの足場にならないように、私の心を守ってください」と叫ぶ必要性があるということだ。張ダビデ牧師はこれを「戦略的祈り」と呼ぶ。サタンはあらゆる支配者や権勢者、さらには教会の中にさえ働きかけてくる可能性があることを踏まえ、私たちは祈りで立ち向かわなければならない。それを集約しているのが主の祈りの最後の願いなのだと説く。
さらに「ただ悪からお救いください」という願いは、単に「悪い行いをしないようにしてください」という消極的な意味ではなく、積極的に「悪しき者サタンから私を救い出してください」という霊的戦いの訴えである、と強調する。「人間はひとり立ちしているとき、いつでも倒れる可能性がある。しかしイエスの御名によって神にすがるとき、サタンは降伏せざるを得ない。イエス様がゲラサの狂人に取り憑いていた軍勢の悪霊の願いを聞かれたとき、『豚の群れに入らせてくれ』と嘆願する悪霊の哀れで屈辱的な姿こそがサタンの実体だ」と彼は語る。ゆえに主の祈りの最後の願いは、「すでに勝利されたイエスの血潮と権威のうちに私を置いてくださり、サタンが勝手に侵入できないよう守ってください」という必死の叫びとして解釈される、と張ダビデ牧師は教える。
彼は教会の中でも、この主の祈りを「機械的に」暗唱するだけで終わらせるのではなく、実際の霊的戦いのことばとして読むべきだと勧める。説教の中で「主よ、私たちを試みに遭わせず、悪からお救いください」と祈る際、「試み」と「悪」が決して抽象的な概念ではないことを繰り返し強調する。創世記3章で蛇がエバに近づき、「まことに神は園のどの木からも食べるなとあなたに言われたのか」と巧みに問いかけたように、私たちの日常においても悪魔は神への疑念を抱かせたり、自分中心の判断をするようそそのかしたりする。最終的には「神はこれをするなと言ったよね? でも本当にそれはあなたのためなの? 何か隠しているんじゃないの?」とささやきながら「神を誤解させる戦略」を展開する。張ダビデ牧師は、この部分こそ最も危険だと指摘する。「堕落への扉はいつも神に対する疑いから開かれる。小さな亀裂が生じると、そこから罪がはらまれる」というのだ。
彼が注目するのはエバの答えである。エバは蛇の質問に「私たちは園の木の実を食べることができるが、善悪を知る木の実だけは、食べてもいけない、触れてもいけない、死ぬかもしれないから」と答える。問題は、創世記2章の記述を見る限り「触れてはならない」という神の命令まであったのかどうかは不明瞭であるという点だ。張ダビデ牧師は、これが「エバがみ言葉を正確に把握していなかったことからくる問題、あるいはその中で無意識的にすでに生じていた不信が増幅されたもの」と解釈する。そして、人がみ言葉を正確に知らないと、サタンがその隙を狙い、自分の嘘をこっそり挿入し、混乱させたり神をさらに歪んだ存在として誤解させたりするのが容易になることを警告する。もし主の祈りに立脚した祈りをしなければ、人間はだれしも自分の思い込みや自己流の解釈を絶対視してしまい、自ら罪の罠にはまってしまうというわけだ。だからこそ「主の祈りという壮大な防御壁を通して、毎日霊的戦いを実践すべきだ。試みに陥らないように、悪に飲み込まれないように、常に神のみ前にひざまずくべきだ」というメッセージを彼は説く。それこそがサタンの奸計を見抜き、勝利を得る道だからである。
張ダビデ牧師はヤコブ1章2節以下も併せて引用し、「さまざまな試練に遭うとき、それをこの上ない喜びと思いなさい」という御言葉が、「サタンの試練」を神が用いて最終的には私たちを練達するという善い実りを語っているとしつつも、それでも「直接的に神が試練されるわけではない」という前提は変わらないと語る。それは人間の自由意志が依然として残されており、サタンはその弱みを攻撃してくるという事実だ。だからこそ主の祈りの最後の言葉が切実なのである。「人間の意志や道徳心だけでサタンの誘惑に打ち勝とうとするなら、必ず失敗する。唯一の鍵はイエスにある祈りだ。イエスが十字架で蛇の頭を砕いた勝利を思い出し、その完成された勝利を私のものとして握りたい、と日々願わなければならない」と彼は力説する。
そしてこの祈りは個人的次元にとどまらず、教会や共同体、さらには国家や指導者たちのためにも捧げるべきだと語る。サタンは支配者や権威者に取り憑くことで、より大きな悪を生み出しやすいからである。エペソ6章12節がいう「私たちの戦いは血肉に対するものではなく、この暗闇の世界の支配者、天にいる諸悪の霊に対する戦いだ」とあるとき、主の祈りの「私たちを試みに遭わせず、悪からお救いください」という願いは、この時代の政治や文化、社会や経済全般を覆う霊的暗闇に対する祈りにもなるのだ。最終的に彼は、この点を通して、イエスの権威によってサタンが縛られるべき領域は個人の心だけでなく、公的領域にも広がっていることを示し、信仰者はそれぞれの場において光を放つべきだと力説する。
Ⅲ. 霊的戦いと神の愛
張ダビデ牧師は結論として、創世記1~2章から見る神の創造と愛、そして3章に明らかになる人間の堕落の過程を「霊的戦いの現実的序幕」と規定する。エデンの園という完全な条件下で最初の人間がサタンの誘惑に負けた事実は、私たちもいくらでも罪に陥りうる存在であることを警告する。しかし同時に、それが単なる絶望的なメッセージに終わらないとも彼は言う。なぜなら聖書は創世記3章15節で既に「女の子孫が蛇の頭を踏み砕く」という福音を予告しているからだ。これはまさにキリストの救済史的な先取りを意味し、イエスが十字架によってサタンの権勢を根本的に打ち砕かれたことで、人間には新たな道が開かれることを示唆しているのだという。
彼が「霊的戦い」を語る際、ともすれば極端な神秘主義や迷信的アプローチに陥りがちな風潮とは異なる「み言葉中心の戦い」を強調している点は特筆に値する。しばしば「敬虔の形だけあって、その力を否定する」態度に反対しながらも、「霊的戦いをうたい、検証されていない神秘体験や好奇心をあおる現象ばかりを追いかける風潮」にも警戒心を示す。代わりに聖書の語る霊的戦いとは、「蛇の頭を砕かれたイエス・キリストの勝利のうちにあって、私たちの生活の隅々に潜む悪魔の嘘を追い出すプロセス」であると定義する。具体的には、み言葉が宣言されるときに悪しき霊が退き、悔い改めと罪の赦しが宣言されるときにサタンの告発が力を失い、礼拝と賛美によって神があがめられるときに闇が逃げていくのを現実に体験すること、これこそが霊的戦いなのだ、と語る。張ダビデ牧師は、この戦いで最も重要な武器は「私たちに対する神の愛を完全に知ること」だと付け加える。愛が冷えると信仰が冷え、信仰が冷えるとサタンが入り込む隙が大きくなるため、人間はまず自分が神の子どもであること、罪人でありながらも十字架の愛によって救われたという確信を持たなければならないのだ。
そのために、彼はしばしばヨハネの福音書1章12節を引用する。「しかし、迎え入れた人々、すなわちその名を信じる人々には、彼は神の子どもとなる権威をお与えになった」。このみ言葉は、本来人間に与えられていた「万物を治める権威」がサタンに奪われた状態が、イエス・キリストのうちで新たに回復されていく現実を示している。言い換えれば、アダムが失ってしまった立場、すなわち神のかたちを授けられた存在としての尊厳が、キリストにあって取り戻されるのである。霊的戦いは「キリストの勝利が既に私に転嫁されている」と知るところから始まる、と張ダビデ牧師は言う。この知識がなければ、人々は依然としてサタンに引きずられ、闇の中で絶えず不安に苛まれ渇望することになる。しかしイエスを信じ、神の子どもとされることを宣言するなら、闇は光に勝つことができないので、結局退かざるを得ないというのが、彼の核心的な教えである。
彼は人々に「夜眠れず苦しむなら、闇の霊があなたを悩ませているのではないか省みてみなさい」と助言する。そして「み言葉を聞き、礼拝し、聖霊のうちに祈るとき、夜はすぐに真昼となりうる」と語る。光なるイエスが共におられるなら、サタンはその影響力を及ぼせないからだ。実際に彼自身、多くの癒しや回復の歴史を目の当たりにしてきたと証しする。たとえば耳が聞こえなかった人が、聖霊の臨在のうちで「闇の霊」が立ち去り、耳が開かれたという出来事なども挙げる。しかし彼は、そうしたことを自慢するのではなく「中心はあくまでイエス・キリストの十字架とみ言葉の権威だ」と強調する。初代教会がイエスの御名によって病を癒し、悪霊を追い出したのと同じように、今も信じる人々には同じ力が与えられており、これこそが霊的戦いにおける信者の武器だと主張する。
ただし、それを乱用してはならないという警告も忘れない。ある人々は「では私たちはいかなる苦難もあってはならず、いつでも即座の奇跡で問題が解決されるはずだ」と考えるかもしれないが、聖書は決してそのようには教えていないというのだ。サタンの攻撃があり、この地には罪の痕跡や傷が満ちているのが厳然たる現実である。それでもなお信徒が「望みにあって忍耐」できるのは、イエスの勝利が私たちと共にあるからにほかならないと語る。張ダビデ牧師は、ローマ8章の「被造物もまた、神の子どもたちの現れるのを切に待ち望んでいる。被造物全体が今に至るまで共にうめき、陣痛を経験している」というみ言葉を引用し、創造世界がいまだ罪の影響下でうめきながらも、同時に救いの完成をあきらめない二重の状態にあると説明する。イエスが再臨されるとき、すべてが最終的に新たにされ、サタンは完全に底知れぬ所(無底坑)に投げ込まれて永遠に縛られ、信徒たちは新しい天と新しい地で神をいつまでもほめたたえるという希望が、彼の語る究極的な終末論なのである。
このように張ダビデ牧師は、創世記3章のアダムとエバの堕落に始まり、「悪魔・サタン」と呼ばれる霊的実体がどのように人間を欺き倒そうとするかを詳細に追いながら、その中で主の祈りの「私たちを試みに遭わせず、悪からお救いください」という祈りがどれほど決定的役割を果たすかを、体系的に説教する。彼の説教に一貫して流れる思想は、「人間が自らの罪を直視しなければ、神の愛もイエス・キリストの救いも、聖霊の力も十分に体験できない」というものだ。反対に、「私のせいです」と叫びながら悔い改め、イエスを心から迎え入れるならば、「霊的戦いの勝利は既に確定した事実」であるという驚くべき真理を享受できる、と語る。そしてこの真理のうちで信徒が得る自由は、世が与えることのできない永遠の安息と喜びだと繰り返し強調する。
張ダビデ牧師は説教の終わりごとに、信徒たちがただ知的同意や好奇心の満足で終わるのではなく、実際の生活の中でサタンの頭を打ち砕く「具体的行い」が伴うよう促す。たとえば家や生活空間に十字架を掲げて献納礼拝をささげ、「キリストに属する者の権威」を宣言すること、家庭礼拝を捧げて霊的秩序を打ち立てること、日々のみ言葉を黙想し闇が入り込む隙を与えないようにすることなどが挙げられる。彼は「悪霊たちはイエスに哀願したように、結局イエスの御名の前で追い出されるのがサタンの宿命だ。しかし私たちがイエスを信じず、むしろ世と手を結んで歩むなら、サタンは私たちのうちに居座り続ける。だからこそ霊的戦いは現実的であり、私たちはキリストと共にこの戦いを戦わなければならない」と語る。
最終的に彼の説教全体の流れは、「人間の堕落、罪の責任、サタンの狡猾さ、イエスの勝利、そして信者の霊的戦い」という一連のスペクトルとしてまとめられる。創世記3章で蛇がエバを誘惑した出来事こそ、旧約から黙示録まで続く「神の国vs. サタンの王国」の大きな叙事の中で、極めて重要な転換点として機能しているという。そして主の祈りの「私たちを試みに遭わせず、悪からお救いください」は、この聖なる闘いに臨む信者の核心的な武器なのだ。張ダビデ牧師は「私たちがこの祈りを日々ささげるとき、サタンは私たちのかかとを傷つけようと襲いかかるかもしれないが、私たちはイエス・キリストの力によってその頭を打ち砕くことができる」と宣言する。この宣言はすなわち、「被造物にすぎないサタンは、決して創造主である神と対等ではなく、イエスの十字架と復活によってすでに敗北が確定している存在」という神学的確信に基づいている。また同時に、「神はすべてを支配しておられる主権者」という確信が前提としてあるのだ。
張ダビデ牧師がこの説教を通じて信徒たちに届けたい究極的メッセージは、「人間の堕落は他人事ではなく、サタンはいつでも私たちを押し倒そうとする霊的な敵であることを直視しよう。しかし恐れることはない。イエスの御名によって大胆に対抗せよ。イエスはすでに勝利されているから、私たちもその勝利を享受できる。主の祈りを真心から祈り、心を守り、『私のせいです』と悔い改めるならば、神は驚くべき救いと回復を与えてくださる」という要約に帰結する。そして彼は、この真理のうちにとどまるとき、「たとえサタンの試みに遭遇しても耐えられ、むしろ霊的にいっそう強められ、イエスの勝利を体験できる」という信仰上の飛躍を約束すると語る。
創世記3章を土台に展開する張ダビデ牧師の説教は、愛なる神と堕落した人間の関係、そしてサタンの起源と活動を詳細に扱いながら、最終的にはキリストにあって展開する救いの歴史と霊的戦いの意味を非常に生々しく提示する。彼が常に強調するのは、「私たちはみな罪人でありながら、イエスにあって召され救われた者として、サタンに立ち向かう霊的武装を整え、日々目を覚まして祈るべきだ」ということ。そしてこの戦いは決して私たちの力や知恵によるものではなく、「イエス・キリストの御名」のうちで行われるのだ、という点である。要するに、張ダビデ牧師は創世記1~2章の創造と3章の堕落、そして主の祈りやヤコブ書、黙示録など旧新約を総合しつつ、教会がこの地上で直面する真の敵は「空中の権威を持つ悪の霊たち」であることを示しながら、同時に信徒たちに「すでに勝利が約束された戦いであるからこそ、大胆になりなさい」と勧めるのだ。その勧めの中には無謀な戦争論や漠然とした恐怖心を煽るものはなく、むしろ「み言葉と祈りで武装された者には闇が入り込む余地はない」という宣言がある。そしてその背後には常に「私は誰か。私は神の子だ。イエスの権威を受け継いだ。闇は光に勝つことができない」という確信が存在し、これこそが張ダビデ牧師が強調してきた福音の本質であり、霊的戦いの現実なのである。