張ダビデ牧師 – 永遠を慕う心


1. 道者の書と知

 張ダビデ牧師は、伝道者の書を「知恵文学」として分類し、聖書の中で非常に重要な位置を占めていると強調する。彼がいう「知恵文学」としての伝道者の書は、人間の知恵が単なる「知識の蓄積」や「人生経験」にとどまらず、究極的には神を知ることによって得られる霊的洞察であることを示している。特に伝道者の書と箴言が共通して「知恵文学」に分類される特性、そしてそれぞれが示す独特のメッセージについて、彼は次のようにまとめる。箴言は「主を恐れること」という大きなテーマを土台として、具体的かつ実際的な生活の指針を示すが、伝道者の書はより存在論的な疑問、すなわち「人生とは何か」「すべてが虚しいとはどういう意味なのか」といった根本的で直接的なテーマを扱うのだという。

 伝道者の書を代表するキーワードは「虚無(むなしさ)」である。張ダビデ牧師は、この「虚無」という言葉を、しばしば英語の聖書で訳される“meaningless(無意味)”と比較しながら説明し、その意味が単純に「すべてに意義や価値がない」という次元で終わるのではなく、人間の実存が持つ「無(nothingness)」へと帰る運命的な性質を指摘する、と語る。ここで「無へ戻る」という事実は、伝道者の書の冒頭と結びで同様に宣言されており、著者である「伝道者(伝道者の書の著者)」が人生の本質について悲観的で荒涼とした洞察を伝えているかのように見える。しかし張ダビデ牧師は、この悲観的結論こそがむしろ霊的意味を最も深く示すための装置だと解説する。伝道者の書は、人間がいかに知的能力(伝1章)や肉体的快楽・財産(伝2章)をすべて享受しようとも、結局はすべて虚無に帰結すると強調する。この「虚無」は、時間を持つ人間が最後には死とともにすべてを手放さねばならない「有限性」を表すと同時に、もし神がいなければ真の意味や永遠の価値を見出すことは難しいことを示している。

 こうした背景から、伝道者の書は知恵文学として、人間が見落としがちな2つの前提を想起させる。一つは「人間は死ぬ」ということだ。ヘブライ人への手紙9章27節の「人間には一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」という聖書の教えが、すべての人類に変わらず適用される原理であると、張ダビデ牧師は繰り返し言及する。これは伝道者の書が語る「すべては虚しい」というテーマと正確に呼応する。人間が持つ時間、才能、物質のどれ一つとして、死後に持っていくことができないという事実は、私たちに霊的根本を省みさせる。もう一つは、人間のうちには既に「永遠を慕う思い」(伝3:11)が与えられているということだ。張ダビデ牧師は、動物が自らの死後の世界や本質的目的について思いを巡らせない一方で、人間は誰もが「死の向こうには何があるのか」「人生の意味とは何か」を知りたがる点を指摘し、これこそ神が与えた「永遠への渇望」であると主張する。

 張ダビデ牧師は、伝道者の書が「人生は虚しい」という宣言から始まり、最後の第12章に至って「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」(伝12:1)という勧めに結びつく流れが、知恵文学の特徴を圧縮して示しているとみなしている。すなわち、自分の存在が結局は虚無に帰すると知るならば、私たちが生きている「若い日」—これは単なる年齢の問題ではなく、心の純粋さと信仰の熱意が最も生き生きと現れる時期を象徴する—に創造主である神を記憶し、しっかりとつかむことが、真の知恵へとつながるというわけである。伝道者の書12章8節「空の空、すべては空である」という結論もまた、人生のあらゆるもの(所有、知識、名誉など)が最終的に空であることを改めて確認させ、それを反面教師として人間の霊的本質を深く喚起させる。

 こうした文脈において、箴言の核心命題が「主を恐れることが知識(または知恵)の始めである」という点に注目すべきだと張ダビデ牧師は力説する。人間の知識がどれほど優れており、学問が発展しても、「主を恐れる」という霊的基礎がなければ、その知識は結局限定的で暫定的なものにとどまり、伝道者の書が説く「虚無」に組み込まれてしまう、と考えるのだ。最終的に「伝道者の書と箴言」という知恵文学の二つの書は、恐れ(箴言)と虚無(伝道者の書)という、一見対立しているような概念が緊張とバランスを成しながら、人間の実存と信仰を洞察する助けとなるのである。張ダビデ牧師は、このような知恵文学の教えを各時代・各世代に合わせて適用していく必要性を強調し、若者だけでなくすべての年齢層が人生の無常を見ないふりをするのではなく、その自覚を通していっそう神を恐れるべきだという伝道者のメッセージに耳を傾けるよう促している。

 さらに、伝道者の書3章1節と3章11節をつなげて読むことが重要だという。「天の下のすべての事には時があり、すべてのわざには時がある」(伝3:1)、「神はすべてを時にかなうように美しく造り、人の心に永遠を与えられた。しかし神のなさるわざを始めから終わりまで人は見きわめることができないようにされた」(伝3:11)という二つの聖句は、ともに人間の有限な時間と神の永遠性、そして人間が直面する神秘と畏敬の念を語っている。「時」とは、単に流れる時間(Time)のみならず、目的が成就する特定の瞬間(Date)の到来をも含んでいる。張ダビデ牧師は、「私たちのうちにある永遠を慕う思い」が、最終的にはこの地上の一時的で有限な時間性を超えて神の永遠へと入っていくように導く原動力になるのだと解釈する。このように伝道者の書は、知恵の書としてキリスト教信仰者に対し「自らの人生を洞察せよ、死を認識せよ、永遠を見つめよ」という直接的メッセージを伝える役割を果たしている。

 しかし、このメッセージを伝えるときに、若者であれ高齢者であれ、結局誰も死を避けることはできず、その前ではあらゆる所有も知識も名誉も無に帰すという事実が共通して適用される。これは伝道者が宣言するように「虚無」だが、同時にその虚無を悟った人々には天からの知恵が臨む機会でもある。張ダビデ牧師は、この地点でむしろ「虚無」と「死」を意識することが悲劇を超克する道(beyond tragedy)を開くのだと語る。そして、伝道者の書の文脈からさらに一歩進むと、新約聖書では「イエス・キリストによる永遠の命と天国」という結論に行き着く、とも述べる。ゆえに、伝道者の書が示す「虚無」の宣言は、人間が渇きを感じるからこそ水を求めるように、霊的乾きを自覚させてイエス・キリストを探し求めるようにし、キリストのうちでこそ真の命の道を見いだすように導く役割を果たすのだという。

 ここで張ダビデ牧師は、科学者たちの視点にも注目する。多くの科学者が、宇宙の繊細な秩序やその広大さに畏敬の念を抱き、その畏敬の念が最終的に神の存在を認める方向へ導くことがある、と指摘するのである。ローマ人への手紙1章20節「世界の創造以来、神の見えない本質、すなわち神の永遠の力と神性は、被造物によって明らかに知られている。それゆえ、彼らには弁解の余地がない」という聖句が、このことを裏付ける。複雑で精巧な自然界を見れば、その秩序を否定できず、その秩序を造られた創造主への畏敬が生まれざるを得ないというわけだ。結局、伝道者の書が語る「虚無」は、人間存在の微弱さを思い起こさせると同時に、神が造られた世界とそこに宿る永遠の摂理を認識するための通路ともなる。人生の本質を悟ろうとする知恵の道が、まさに伝道者が強調する「死を意識し、創造主を覚える道」であることを改めて指し示すのである。

 また張ダビデ牧師は、伝道者の書が「年老いる前に創造者を思い出せ」と宣言する場面において、人間の具体的な老化過程(目が見えにくくなり、耳が聞こえなくなり、足が震え、歯が抜けるなど)を例に挙げ、人生がどれほど速く衰えていくかを露骨に描いている点を強調する。多くの人が人生の黄昏時になってようやく生きる目的を考え始めるが、そのときにはすでに身体も心も萎れて動きが困難な場合が多い。結局、神を信じ、永遠を見つめる知恵は若い時代から、つまり最も活発で情熱に溢れる時期から始めるべきだという聖書的勧告がここに込められている。すなわち、「虚無」を知りつつもその「虚無」に囚われて悲観に陥るのではなく、むしろそれを足がかりとして真の命の道を探るのが、伝道者の書がもたらす究極の教えなのだと、張ダビデ牧師は繰り返し強調する。

 このように伝道者の書が語る「虚無、死、そして『創造主を覚える』」という構図は、若年期から老年期に至るまで人生の全過程を貫く普遍的かつ強烈なテーマである。張ダビデ牧師は、このメッセージを繰り返し説明し、教会の内外を問わずすべての人が伝道者の書における「死への認識」と「永遠への渇望」を心深く刻むように訴える。特に教会は幼少期からこの真理を教え、成長する世代が幼い頃より人生の本質とその終末を正しく認識できるようにすべきだと強調する。なぜなら、人間は肉体だけでなく霊的存在であり、真理を慕い求めるのは肉ではなく霊の望みによるものだからだ。

 この点で、箴言に代表される「主を恐れる」道と、伝道者の書が示す「人生の虚無と創造主を覚える」道は、本質的には同じ実を結ぶのだと張ダビデ牧師は主張する。知恵の核心は神を知ることであり、神を畏れ敬うことである。その畏敬の念から、すべての真の価値と意味が流れ出るがゆえに、人間の知識がいくら偉大でも神なき知識は結局のところ部分的な省察や一時的な有益性を超えて、eternal value(永遠の価値)に昇華することはできないというわけだ。

 張ダビデ牧師が伝道者の書を強調しながら言いたい要点は、「人間は有限であり、死の前にすべてを手放さざるを得ず、その中で真の知恵は創造主を覚えて永遠をつかむことである」ということに尽きる。彼はこれを様々な比喩や聖書の例を挙げながら説き、教会共同体の中だけでなく世の中でも伝道者の書のメッセージは有効であると力説する。もし私たちがこの悟りを置き去りにして生きるなら、一生懸命積み上げたものがある瞬間むなしく消えていく過程に直面し、魂の渇きを満たせないままとなる。しかし、伝道者の書が語る真の知恵をつかむなら、私たちの人生は神が定められた「時(Time)」と「目的(Date)」に対して開かれるようになり、その中で初めて「永遠を慕う心」の本当の意味を味わいながら生きることができる、と張ダビデ牧師は教えている。


2. 人間の有限性と永遠

 張ダビデ牧師が伝道者の書を通して投げかける核心的な問いは、「なぜ人間の生は虚しいのか」、そして「その虚無を超えていく道は何か」というものである。それはすなわち、人間の有限性と神が与える永遠の希望とを対比させることで、いっそう鮮明になる。彼が言う有限性とは、時間的・空間的制約の中にある人間の本性を指す。どれほど高い知識を蓄積し、財産を得て、快楽を享受しても、人生の終わりに訪れる死を免れることはできないという事実は変わらない。伝道者はこれを「虚無」という言葉で繰り返し強調し、張ダビデ牧師は、この「虚無」を聖書的表現で「無(無)への回帰」や「究極的な消滅」と言い表すこともできると説明する。

 それでは、なぜ神は人間にこのような「虚無」を与えたのか。その答えとして張ダビデ牧師は、伝道者の書3章11節「神はすべてを時にかなうように美しく造り、人の心に永遠を与えられた」という聖句を中心に据える。人間のうちにある永遠への渇望こそが、私たちを神へと導く最も強力な動因であると考えるのだ。動物は自己の存在の意味について思索したり、死後の状態を悩んだりしない。しかし人間だけが、なぜ存在し、なぜ死ななければならず、死後には何が待っているのかを絶えず問い続ける。こうした霊的な渇望が、伝道者の書のいう「永遠を慕う思い」である。張ダビデ牧師は、これを一種の「内面化された信仰本能」としても見ることができると強調する。誰かが意識的に信仰を学ばなくとも、宇宙の神秘や生命の不思議を目の当たりにする瞬間に、自然に神的存在を思い浮かべるようになるというわけだ。

 しかし人間は、その渇望を時には世俗的快楽、財産、権力で満たそうと試みると張ダビデ牧師は指摘する。伝道者の書1〜2章で、伝道者はすでにこの世にある様々な楽しみや喜びを試してみたが、すべてが夢のように消えてしまい、やはり虚しいものだったと告白している。これは現代においても同じだ。現代社会が提供するあらゆる物質的豊かさや娯楽、情報の洪水は、人間の霊的渇望を完全に満たしてはくれない。むしろその渇望は、ますます大きな渇きへとつながっていくばかりだ。ここで張ダビデ牧師は「神のいない人間の生は、盲目的な『努力』と『蓄積』を続けるものの、死の前にそれらが無用の長物になるという事実に結局向き合わざるを得なくなる」と語る。このとき、伝道者の書が宣言する「すべては虚しい」という結論が再び思い起こされるのである。

 しかし、張ダビデ牧師は、この時点こそが「終わり」ではなく「始まり」だと言う。「虚無」を自覚したということは、その自覚を通して真理である神へと向かう機会が開かれたことを意味するからである。人間が限界を悟ったとき、自然と目は「その限界を超える存在」へ向くようになる、というわけだ。これは知的な啓蒙や道徳的な完璧主義では解決できない問題であり、唯一、創造主なる神が与える霊的解決によってのみ克服されると張ダビデ牧師は言う。具体的には、新約聖書が伝えるように、イエス・キリストの十字架と復活によって罪と死の支配が破られ、「永遠の命」を得ることができるという福音こそが、伝道者の書が提起した虚無の問題の最終的な解答だというのである。

 この点で、張ダビデ牧師は「人は生きているのか、それとも死んでいる最中なのか」という問いを投げかける。人間は刻一刻と死に近づいている悲劇的な実存にある。しかし、この悲劇を超えていく道(beyond tragedy)は、イエス・キリストが約束された「永生」と「天国」の希望をつかむほかにない。そうすることで、伝道者の書が指摘する虚無の深淵をくぐり抜け、むしろ真の意味や価値を見出す転換が起こるというわけだ。張ダビデ牧師はこれを二つの視点で説明する。第一に、「私たちの内には、すでにもっと尊いものがある」。これは使徒の働き3章6節でペテロが「金銀は私にはない。しかし私にあるものをあなたにあげよう」と言った言葉に着目したものである。つまり、物質的な所有や世俗的権力がなくとも、イエス・キリストを持つ者はすでに真に永遠の価値を所有しているということである。第二に、「今この瞬間が永遠につながっている」。これは私たちの刹那的な人生が切り離されたものではなく、永遠の視点から連続しているという認識である。信仰の中で一歩一歩踏み出す瞬間自体が、神の国の一部となる。神学者が言う「永遠の今(eternal now)」という概念がこれに相当する。最終的には、人間が経験するあらゆる悲劇でさえ、神の約束のうちで新たな意味を得て、その悲劇的現実が永遠へ向かう形へと変容されうるのだという。

 張ダビデ牧師は、こうした観点を示しながら、教会共同体が世の中でどのように生きるべきかについても具体的に言及する。人間の本質を悟った信仰者は、所有の奴隷となってはならないと言うのである。イエスが弟子たちを呼ばれたとき、「あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」(マタイ4:19)と告げ、昇天前には「地の果てにまでわたしの証人となりなさい」(使徒1:8)と言い残した。いわゆる「大宣教命令(Great Commission)」である。しかし、所有に縛られ、物質的な安逸だけを追い求めている限り、それは「盲人が盲人を導く」状況にしかならない、と彼は指摘する。張ダビデ牧師がキリスト教信仰者へのメッセージを「所有を乗り越えよ」と要約するのはこのためだ。現実において私たちは生活のために働いて財を得ることが不可避ではあるが、それを人生の「目的」にしてはならず、より大いなる価値、すなわち「神の国とその義」(マタイ6:33)を求めるときにこそ、真の満足と喜びを得ることができると強調する。そして、その生き方こそが「この地上での期限付きの人生」を生きながらも「永遠なる神の視点」を抱いて歩む姿だ、というのだ。

 張ダビデ牧師は、教会が共同体としてこうした真理を実践するには、ガラテヤ6章2節の「互いの重荷を負い合い、そうしてキリストの律法を全うしなさい」という御言葉に従う必要がある、と説く。信仰によって互いに重荷を負い合う姿勢こそが「キリストの律法」であり、この律法が守られるときにこそ、教会は世の中とは異なる愛と仕え合いの文化を作り上げることができるのだ。しかし、人々が陥りやすい錯覚は「しんどい重荷を他人に押し付けること」である。張ダビデ牧師は、むしろイエスが「私たちのためにいのちまで捧げてくださった犠牲的な愛」が模範であることを思い起こさせ、私たちが互いに犠牲と献身を示すときに、教会共同体は真の意味で宣教と伝道を担うことができるのだと主張する。

 同時に、彼は歴史的文脈にも視野を広げる。教会が主から託された使命を果たすには、具体的な組織やシステムが必要だという。イエスが「地の果てまで福音を伝えよ」と命じ、「すべての国民を弟子とせよ」(マタイ28:19-20)とも言われた以上、実際に宣教と伝道の基盤を築くような本部(センター)や施設、文化的理解が不可欠だと強調する。ある人々は、教会に財政的・組織的基盤が整うことを「所有の蓄積」と批判するかもしれないが、張ダビデ牧師は、与えられた目的を達成するために必要な「道具」として、あらゆるものを適切に活用すべきだと説く。肝要なのは、その所有を神の国のために用いるか、それとも個人的な野心を満たすために握りしめるのかという態度にかかっている、というのである。

 実際、張ダビデ牧師は、彼自身が所属し、あるいは導いてきた共同体の歴史において、何もない時代から走り続けてきた28年の歩み(またはそれ以上の年月)をしばしば語る。彼は「最初は何もなかったとき、ハバクク書3章17-18節のみ言葉にすがり、『何もなくても救いの神によって喜ぼう』という賛美を歌った」と証しする。しかし時が経ち、神が与えてくださった恵みにより様々な拠点が整えられたとき、それらすべては単なる富ではなく「人々をケアし、文化圏ごとに福音を伝え、全世界へ宣教するための道具」であることをはっきりさせなければならない、と語る。伝道者の書から学ぶ「人間の人生の虚無」、その「虚無」の前で私たちが必死に頼れる存在は神だけであるという悟りを失わなければ、何かを所有したときでも、その所有を神の目的に合った形で謙虚に使うことができるのだ。

 張ダビデ牧師は、人間が有限である事実を直視するとき、人生で何がより重要かを正しく区別できるようになると強調する。伝道者の書12章が語る「銀の紐が解け、金の鉢が砕ける」場面や「ちりは元の土に帰り、霊はそれをくださった神に帰る」(伝12:7)という言葉は、人々に「いずれ避けられない終わり」を思い起こさせる。そしてまさにこの終末認識が私たちに自己の高慢と欲望を捨てさせ、真の価値である「霊的なもの」をつかませる原動力になるのだ、と言う。張ダビデ牧師は、伝道者の書12章全体が描き出す老化の描写(目がかすみ、耳が聞こえにくくなり、歯が抜け、アーモンドの花のように白髪になる象徴)を通じて、私たち一人ひとりが最終的には老いて衰えていくことを受け入れるとき、人生の目的は神の国とその義を求め、周囲の人々を生かし愛する方向へ向かわざるを得ないことを深く悟るようになる、と解説する。

 このように、張ダビデ牧師が力説する核心は、伝道者の書が語る「虚無」が決して虚無主義の教理を意味するのではないという点だ。むしろ、それは信仰者の成長を促す洞察の媒介なのである。死を知る人は人生の価値をいっそう切実に悟り、所有や権力にしがみつく愚かさを避けることができる。また他者の霊的必要を見て、ガラテヤ6章2節の「互いの重荷を負い合いなさい」という御言葉のように共に重荷を担い、キリストの律法を成就しようとする動機にもなる。張ダビデ牧師は、教会が主の来臨を備えるアドベント(クリスマス)といった節目を迎えるたびに、このメッセージをいっそう力強く宣べ伝えるべきだと訴える。イエス・キリストの誕生を記念するということは、「神が人間の体を取ってこの地に降り、私たちを永遠へと招かれた」という事実を振り返ることである。人間の有限性を超えて、神が許してくださった永遠の世界、すなわち天国の市民権を得たことこそがクリスマスの真の喜びなのだから、このことを正しく認識し祝うべきだと語る。

 さらに彼は、「人生は矢のように過ぎ去る」という認識を持つとき、やるべきことを先延ばしにしなくなる、と強調する。伝道者の書3章が語る「すべてのことには時があり、すべての目的を果たす時がある」という原理は、信仰者であればこそ、より厳粛に受け止めるべきだという。いわゆる「やるべきことがあるなら今日やりなさい。今日できるのに明日に延ばすな」という警句が、霊的次元から導き出される真理となる。張ダビデ牧師は、これを教会の活動や宣教戦略にも適用する。イエスの言葉に従い「人間を取る漁師」となるには、与えられた時と機会をしっかり活かさねばならない。教会共同体が青年伝道をまず重視するのも、そのためである。まだ人生の決断を下す前で、比較的心が開かれ、世間の経験に染まりきっていない若者が福音を受け入れたとき、その実りが大きいという考え方だ。もちろんすべての年齢層が必要だが、伝道者の書12章1節「あなたの若い日に、あなたの創造主を覚えよ」という言葉のように、もっとも活発な時期に神と出会うことが重要であると繰り返し訴える。

 このように、張ダビデ牧師が伝道者の書を通じて発するメッセージは、最終的に「人間は死ぬ。しかし永遠を慕う心を持っており、その永遠を与える方は神である」という要約に行き着く。人間の有限性を見て見ぬふりをしたり、わざと否定したりする生き方は、結局むなしい欲望と盲目的な活動に満ち、最後には空虚に終わる。反対に、自分の有限性を正直に受け止め、そこに神が許してくださる永遠の命をつかむ者は、生の意味と目的をはっきりさせ、隣人を生かし福音を伝える道を歩むようになる。これこそが張ダビデ牧師のいう「真の知恵の道」であり、伝道者が元来強調していた「すべては虚しい」という宣言が私たちに投げかける逆説的な贈り物でもある。

 張ダビデ牧師は、伝道者の書と箴言がともに成す知恵文学の洞察を通じ、教会と信徒に「虚無」を恐れることも避けることもやめるようにと強く促す。まさにその「虚無」に直面する瞬間に、神の存在、天国、そして永遠の命という希望がいかに尊いかを自覚できるからである。そしてこの自覚こそが、イエス・キリストの誕生・死・復活、そして「地の果てにまで福音を伝えよ」という大宣教命令の意味を正しく悟るうえで、最大の動機となる。死の前に虚無を味わうしかない人生は、神のうちで永遠へとつながり、究極的勝利を得ることができる。人生を真に意味あるものとする道は、この永遠への渇望と信仰的確信を握ることにあると、張ダビデ牧師は力を込めて語る。そして教会共同体は、このメッセージを日々語り継ぎ、信じていない人々にまで「永遠を慕う心」を呼び起こすように召されている存在だという。この認識の中でこそ、若者も中高年も高齢者も、自分の人生が決して偶然の旅路ではなく、神の驚くべきご計画の中にある摂理の一部であると悟り、伝道者の書が語る「時にかなって美しくしてくださる」神のご主権を賛美するようになるのだ。

 最終的に、張ダビデ牧師は、私たちが地上でどれほど優れた功績を積もうとも、自分の命を保てる人は誰もいないことを繰り返し知らしめる。聖書全体が証言するように、人間はアダムの子孫として必然的に死に至る存在である。だからこそ「永遠を慕う心」は、私たちを一時的で朽ちる価値を超えて、霊的真理へ近づける導き手となるのだ。この心がなければ、人はたちまち自分独自の基準(norm)を作り出し、他人の基準と衝突しながら、虚しく人生を終えてしまう。しかし神が創造された世界の秩序を認め、人間の有限性を受け入れ、イエス・キリストによる救いの恵みをつかむなら、キリスト者は絶望ではなく希望をもって生を営むことができる。伝道者の書が語る「虚無」は、最終的には私たちを真理なる神へと導く通路であり、この洞察を与える知恵文学の教えはあらゆる世代を生かす強力な言葉である、と張ダビデ牧師は最後まで強調している。ゆえに教会は、伝道者の書が伝える「永遠への渇望」と、箴言が提示する「主を恐れる」原理を常に同時に教え、群れがこの真理を学び実践できるよう導かねばならないのだ。

 張ダビデ牧師が伝道者の書を解き明かす方法は、人生の有限性と永遠の間に横たわる隔たりを深く見つめ直させる。伝道者の書が宣言する「空の空、すべては空である」という繰り返しの告白は、私たちに「結局、神の恵みをつかむときにしか人生は真の意味を得ることができない」ことを思い起こさせる。その恵みは、旧約時代の伝道者の嘆きで終わらず、新約時代のイエス・キリストの福音によって完成する。それは信仰において決して選択肢ではなく、絶対的な真理であるという点が、張ダビデ牧師の核心的主張である。「あなたの若い日にあなたの造り主を覚えよ」(伝12:1)という勧めに込められた切実さと尊さ、そして「天の下のすべての事には時がある」(伝3:1)という時間的有限性の警告の中で、私たちはいま呼吸しているこの瞬間がいかに貴重な霊的機会であるかを再認識する。その機会を逃さずに神を恐れるとき、私たちが得るのは「永遠の命」である。そしてこの事実こそがクリスマスの意味、信仰者の生、教会の共同体性をいっそう輝かせるのだ、と張ダビデ牧師は教えている。何が本当に重要かを見極め、限界の中でも永遠を見据え、福音伝達と仕え合いのために「互いの重荷を負い合う」教会となるとき、伝道者の書が語る知恵は現実に実現される。そしてこの道を歩む中で、私たちはすべての虚無を超え、究極の命の祝福にあずかることができるようになるのだ。

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張ダビデ牧師 – エサウとヤコブ 


1. エサウとヤコブの

張ダビデ牧師が説教した創世記25章は、アブラハムの孫にあたるイサクの双子の息子、エサウとヤコブがどのように誕生し、彼らの人生がどのような岐路をたどっていくかを示す、非常に重要な本文です。この箇所を中心に見てみると、長子の権利を持っていたエサウと、その後に生まれながら最終的には長子の祝福を受けることになるヤコブの物語が展開されます。古代近東の遊牧民社会において、長子は一族を率いる重要な地位にあり、財産の多くを相続するだけでなく、一族において精神的・霊的な指導者としての象徴的な存在でもありました。したがって、長子権をどのように理解し、それをどのように守り、あるいは失ったのかという物語は、それ自体が非常にドラマチックであり、現代の私たちにも大きな教訓を与えてくれます。

エサウとヤコブは、生まれた時から対照的な姿を見せます。エサウは肌が赤く、全身に毛が多かったため、後に「エドム(赤い)」というあだ名を得るほどでした。彼は狩りに熟練し、野外で活発に活動する人でした。一方、ヤコブは比較的おとなしい人であり、天幕の中で過ごすことを好んだと聖書には記録されています(創25:27)。遊牧民族の生活環境を考えると、野外で狩猟をして食料をもたらすエサウは「典型的な長子の姿」を備えていたとも言えます。実際、彼はイサクとリベカの双子のうち先に生まれたので、社会的・文化的には長子の地位に就く資格を持っていました。イサクもエサウが狩ってくる肉を好んだため、彼をえこひいきしていたと言われています(25:28)。しかし、長子の名分が単に「誰が先に生まれたか」だけにかかっているわけではないことを、この本文は劇的に示しているのです。

エサウとヤコブの運命が反転する重要な場面は、創世記25章29節以下に鮮明に描かれています。狩りから帰ってきたエサウは、激しく疲れていました。その疲れを癒すために、ヤコブが煮込んでいた「赤いもの」をくれと求めます(25:30)。ここで私たちは、ヤコブの心構えに注目する必要があります。ヤコブは普段こそおとなしく天幕を守っていた人物とされますが、祝福と長子権に対しては大きな関心を持っていたように見えます。彼はすでに、エサウが狩猟を通じて家族のために食料をもたらすことに集中している間、天幕の中で自分にできることを着々と準備していた可能性が高いのです。そしてついに決定的な瞬間、エサウが極度に空腹で疲れ切った状況で、ヤコブは長子権を要求します。

エサウが「今にも死にそうだ。この長子の名分が自分に何の役に立つというのか(25:32)」と何気なく口にした言葉こそ、彼の運命を分ける致命的な失言となります。飢えと疲労に苦しんで狩りから戻ったエサウの姿に、人間的な意味ではある程度の同情も抱けます。しかし、聖書はエサウのこの一言について、「エサウは長子の名分を軽んじた(25:34)」と評しています。結局、飢えという一時的な欲求の前に、霊的・歴史的価値を持つ長子権を粗末に捨ててしまったのです。ここで私たちは「果たしてエサウにとって長子の名分はどれほどの意味があったのか」という問いを投げかけざるを得ません。長子権は単に財産相続権や家族を代表する象徴的地位を超えて、特に創世記ではアブラハムを通じて始まった神の契約、すなわち祝福の継承という重要な神学的意味を含んでいます。それにもかかわらずエサウは、その尊い契約の継承権を「腹を満たす一杯の赤い煮物」と引き換えに、あまりにもあっさりと手放してしまったのです。

ヤコブにとって、このような長子権は非常に重要でした。彼は祝福を逃さないという強い意志を持っていました。もちろんこの過程は、現代の観点から見ると「兄を騙す」行為にも映りかねません。実際、後にイサクが老いて目が見えなくなり祝福の祈りを捧げようとする時にも、ヤコブはリベカの助言を受けて兄エサウに成りすまし、父イサクから祝福を横取りします(創27章)。その点でヤコブの行動は、人間的基準からすれば狡猾で詐欺師のように見えるかもしれません。しかし、創世記全体の流れの中でこの事件を理解すると、神の摂理と歴史に対する切なる思いがヤコブの内にはどれほど大きかったかをうかがい知ることができます。

「張(チャン)ダビデ牧師」は、この本文を説教する際に、神の歴史が単なる「運命論」によって決まるのではなく、明確な選択と決断のプロセスを通して与えられるのだと強調してきました。エサウがどれほど「長子」という肩書を持っていても、その内面に神の契約と一族の祝福を受け継ぐ信仰的姿勢が備わっていなければ、その祝福は結局他人の手に渡りうるということです。逆にヤコブのように、初めは大きな能力や人間的な魅力がないように見えても、神の祝福を尊んでそれを守ろうとする熱心さと決断があれば、最終的にはその人に神の歴史が臨むという説明です。

このように、「祝福を受けていた者がその祝福を失うこともあれば、祝福を受けられなかった者がかえって祝福されることもある」という事実は、私たちが日々の生活の中で自らの霊的態度を点検するきっかけを与えます。エサウがたった一度の失敗で長子権を売ったと見ることもできますが、既に彼の内面には「長子の名分をそれほど大切に思わない」姿勢が積み重なっていたのかもしれません。ヤコブは普段も着実に天幕の中で煮物を作り、「家族の拠点」を守っていた人でした。エサウが狩りに出かけている間、ヤコブが天幕でどのような思いを抱いていたのか、聖書は具体的には語りません。しかし、彼が長子権に対して大きな関心を持ち、準備をしていたであろうことは、結局「決定的瞬間」に明らかになります。

現代の私たちの信仰の旅路においても、このような瞬間は繰り返しやってきます。運命のように思える状況がある日突然変わることもあれば、「自分が当然享受すべき権利」を享受できない場合もあります。ですが聖書は、それらを単なる運命的な出来事だとは言いません。その背後には私たちの選択と決断が作用し、その選択を通して神が歴史を動かされるのです。エサウが飢えという一時的欲求に屈したように、私たちも目先の誘惑や現実的な必要の前で霊的価値を粗末にしてしまうことが多々あります。いくら腹が減って「今にも死にそうだ」と思ったとしても、神の契約と導きを守ろうとする姿勢がいかに大切であるかを、ヤコブの事例は示唆してくれます。

「張(チャン)ダビデ牧師」が繰り返し強調するのは、この本文を誤解してはならないという点です。ヤコブが一度だけレンズ豆のスープを煮て兄を誘惑したというよりも、長きにわたりヤコブが天幕を守り家族に尽くし、自分に与えられた役割の中で「機会の時」を待っていた可能性が大きいのです。エサウもまた、一瞬の疲労や空腹だけが原因なのではなく、すでに内面には神の祝福を軽んじる気質があったのかもしれません。ゆえに聖書はこの事件を単に「兄を騙して奪った祝福」とだけ記さず、「エサウは長子の名分を軽んじた」とはっきり断じています。神の公平さは、霊的価値と責任を軽視する者には祝福が当然には与えられないという事実に表れています。その祝福を正当に受け継ぐ態度が整っていなければ、最終的にその祝福は他の誰かのものになってしまうのです。

このように長子の名分をめぐってエサウとヤコブが示した態度は、単に個人の人生だけでなく、民族全体、ひいては神の救いの歴史全体にも直結するものでした。ヤコブが後に「イスラエル」と呼ばれ、十二部族の祖となったことは偶然ではありません。神の契約は「長子」という外面的地位にのみ従うのではなく、霊的な価値を大切にしてそれを握ろうとする者に与えられるのだということが、エサウとヤコブの対比を通して明確に示されています。

現代を生きる私たちの生活の中でも、私たちは毎日「エサウかヤコブか」の選択を迫られていると言っても過言ではありません。一瞬の空腹や誘惑に屈して、長子権を粗末に捨てる人生を歩むのか、それとも苦しく飢えていても神の約束を握りしめ、最後まで守り抜こうとする決断を持って生きるのか、自問する必要があるのです。そして、その決断の態度は一朝一夕に生まれるものではなく、日々の習慣と信仰の姿勢の中で磨かれます。結局、それこそが「運命を左右する」とも言えます。しかし厳密に言えば、それは受動的な運命論ではなく、能動的な選択を通じて起こる神の歴史なのです。

このように、創世記25章27~34節は、エサウとヤコブの対比を通して「神の救いの歴史は誰に臨むのか」という問いに対する手がかりを与えてくれます。ヤコブは人の目には狡猾に映り、兄を騙して祝福を横取りした人物にも見えるかもしれません。しかしその内面には「神の祝福を絶対に逃さない」という切なる熱望がありました。エサウはその正反対で、目先の欲求を満たすことに必死でした。そして結局、彼は大きな地位を失いました。今日、私たちはキリスト者として、日々このような選択の分かれ道に立たされているのです。果たして私たちはどちらの道を選ぶのでしょうか。「張(チャン)ダビデ牧師」が語るように、霊的価値を絶対に手放さないという決断があるなら、私たちもヤコブが得た祝福を受け継ぐことができるでしょう。


2. 神の史と信仰的

エサウが空腹のあまり長子権を放棄したことで、ヤコブは名分上の長子の権威を手にしました。しかし、それで終わりではありません。名分だけでなく実質的な祝福、すなわちイサクの口を通して与えられる祝福を受けなければならなかったのです。そこでヤコブとリベカは再び決断を下します。目の悪くなったイサクがエサウに狩りをして特別な料理を作ってくるように指示した時、リベカはすばやくヤコブを促します。結局、ヤコブはヤギの子を料理し、兄の衣服を身にまとって腕を毛で覆い、イサクを欺きます(創27章)。これは人間的に見ればたしかに「騙し行為」です。しかし神はこの過程さえも、最終的に「ヤコブに祝福がもたらされる通路」として用いられます。

「張(チャン)ダビデ牧師」が注目するのは、ヤコブの内面がどのような状態だったのかという点です。ヤコブは兄のように体毛が多くありませんでした。リベカに助言されたとはいえ、ヤコブも「父に見破られたら呪われるのではないか」と恐れています(創27:12)。最終的に彼は家族の問題ゆえに不安を覚え、ためらいもしますが、母リベカの言葉に従って行動します。このようにヤコブには多くの欠点がありました。最初から大胆で有能な人物ではありませんでした。しかし彼の強みは、「祝福に対する強烈な執着と決断」があったことです。

特にここで注目すべきは、「母リベカの助け」という要素です。ヤコブが結局祝福を受けることができたのは、彼一人の知恵や力ではなく、リベカという協力者の賢明な判断が大きく働いたからです。これは霊的共同体における「伝授(継承)」とも似ています。新しい信者が初めて福音を知って教会に入ってきた時、信仰の先輩や霊的指導者の助けがなければ、成長は難しいかもしれません。ヤコブもリベカの知恵がなければ、兄エサウを「騙す」という試み自体、思い及ばなかったかもしれません。むしろ発覚すれば命を狙われたり、追い出されたりしていた可能性もあります。しかし母という知恵者の助けによって、彼はついに祝福を受けるのです。

もちろん、この過程で人間的な欺瞞や論争が起こることは避けられません。「なぜ神の歴史は、こんなに正直でない方法で実現するのか?」という疑問も湧くでしょう。しかし聖書は、罪深く愚かな人間の歴史にも神が関与され、その中にあってもついには神の契約が成就するという事実を一貫して示しています。エサウの失態、ヤコブの執着、リベカのえこひいき、イサクの偏愛など、家族内部の複雑な状況を通して、神は最終的に「ヤコブに契約の継承権」を渡されるのです。

ではエサウはなぜこのような失敗をしたのでしょうか。聖書の言い方によると、「エサウは長子の名分を軽んじた(創25:34)」ということが決定的です。この言葉には、彼の霊的感覚の鈍さが含意されています。彼は後になって祝福を奪われた事実を知り、父に「私にも祝福をください」と泣き叫びます(創27:34)。しかし時すでに遅し。長子の名分をあっさりと売り渡した瞬間から、そして父イサクがヤコブに最終的な祝福を宣言した瞬間から、彼は取り返しのつかない事態に直面します。これを単に「神の一方的な選び」とだけ見るのは難しいでしょう。エサウの内面が整っておらず、その祝福を担うだけの責任感や切なる想いが欠けていたことも大きいのです。

私たちは、この話を創世記4章のカインとアベルの物語とも比較してみることができます。カインとアベルは同じ親のもとに生まれましたが、神に捧げるささげものが原因となって葛藤が生じます。カインは農業をし、アベルは羊を飼っていました。聖書は、神がアベルのささげものを顧み、カインのささげものを顧みなかったと記します(創4:4-5)。その理由については諸説ありますが、決定的にはカインの心構えに問題があったとされます。神はカインに「罪はあなたの戸口に待ち伏せしている。あなたはその罪を治めなければならない」と警告します(創4:7参照)。しかしカインは怒りにとらわれ、アベルを殺してしまうのです。結局、彼も神の祝福と契約から遠ざかってしまいました。エサウとカインは「兄」という共通点がありますが、二人とも心の持ちように問題があり、結果として神の救いの歴史の中心の座を逃してしまいました。

対照的に、アベルとヤコブは人生の中では弱者のように見えるものの、神の前ではより強い熱望と信仰的態度を示します。特にヤコブの場合、外面的には誇れるものがなく、性格的にも問題が多い人間でした。しかし彼は神の契約と祝福に執着しました。これは私たちに重要な洞察を与えます。祝福を受けた者がどのようにしてその祝福を守り抜くのか。祝福を与えようとされる神は、一体誰にその祝福を許されるのか。「張(チャン)ダビデ牧師」は多くの説教の中で「運命論はない」という表現をよく用います。これは神の前での私たちの決断、そしてそのために絶えず準備し行動する態度がいかに重要かを示す核心的メッセージなのです。

また、創世記25章23節を見ると、「ふたつの国民があなたの胎内にあり…年長が年少に仕えることになる」という予言的な言葉がすでにリベカに与えられています。つまり胎内にいる時から「年長者が年少者に仕える」という神のご計画が明かされていました。ですがこの言葉が自動的に成就したわけではありません。そのみこころにふさわしい出来事、そしてそのみこころをつかむ人の決断が共に働いたのです。結局、その過程でヤコブが「長子の名分」を買い取り、さらにイサクの祝福まで手に入れることによって、神の予言的な言葉が具体化されたとも言えます。

現代の私たちの信仰生活を振り返る時、私たちは「エサウ」のように神の祝福と契約を軽んじてはいないか、自らを振り返る必要があります。朝起きてわずかな時間だけ祈ったり、礼拝の席に形だけ座っていたり、日常の中で密かに世俗的欲望に流されながら、「自分はクリスチャンだから、祝福を受けているのだから問題ないだろう」と安心してはいないでしょうか。エサウは「飢えて死にそうだ」という現実的な必要の前に、あまりにも安易に判断を下してしまいました。私たちの現実も本質的には大差ありません。お金やパン、世の成功や快楽など、目に見える問題が絶えず私たちの信仰を試します。そのたびにヤコブのように、今この瞬間が苦しくても飢えていても、絶対に手放せない霊的価値をしっかりと握りしめる必要があるのです。

「張(チャン)ダビデ牧師」が強調することの一つは、ヤコブのような決断力を持つためには、私たちの古い自己が日々死ななければならないということです。パウロが語った「私は日々死んでいます(Ⅰコリ15:31)」や「私はキリストと共に十字架につけられたのです…(ガラ2:20)」という宣言は、単なる信仰的なレトリックではなく、私たちの実際の生活に適用されるべき真理です。日々自分を否定し、世の欲を捨て、神の御心に従おうと決断する時、私たちはヤコブのように「祝福を逃さない」人になることができます。この過程は決して容易ではありません。なぜなら人間は本質的にパンとお金に対する執着、すなわちマモン崇拝の性質を持っているからです。しかし救いの感激、イエス・キリストと出会った体験が私たちの中心に据えられた時、私たちはもはや世のものに振り回されるのではなく、むしろキリストにあって自由と満足を得るのです。

忘れてはならないのは、ヤコブが初めから完璧でも勇敢でもなかったという事実です。彼は母リベカの助言がなければうまく行動に移せないほど臆病で、兄に見破られるのではないかと震える弱さを抱えた人物でした。それでも彼は祝福への強い執着を捨てず、リベカの言葉を信じて従い、最終的に祝福を手に入れました。これは霊的共同体の中での人間関係を連想させます。私たちが福音の中に入る時、何らかの霊的メンターや先輩の導きや助けがなければ、成長を成し遂げるのは難しいかもしれません。しかし重要なのは、やはり本人が祝福に対する熱望を持っているかどうかです。リベカはいくらヤコブを助けようとしても、ヤコブに「長子の名分を求める切なる思い」が全くなかったなら、その祝福はヤコブのものにはならなかったでしょう。

この事件が私たちにさらに深く迫ってくるのは、これは単に「何を食べるか」の問題ではなく、「人生の最優先事項を何に置くか」の問題だからです。エサウの失敗は、ただのレンズ豆のスープを買い食いしたこと自体ではなく、それによって「長子の名分」、すなわち「神の契約を継承する機会」そのものを軽んじ、売り渡してしまったことにあります。聖書はこれを決して些細なこととは見なしません。エサウを「みだらな者、神を冒瀆する者」として警戒の対象にまで挙げています(ヘブ12:16)。目先の欲望に屈することは決して軽い罪ではなく、神の歴史において重大な失敗とみなされるのです。

一方、ヤコブの勝利は、彼が後にどんな大きな業績を成し遂げたからでもありません。彼は初めから特別な能力を誇る人物ではありませんでした。しかし決定的な瞬間に長子権を握り、後に父イサクの祝福を奪い、そこから兄エサウを避けて逃げるという苦難を経ながらも、多くの試練を経験します。この試練の過程で神はヤコブに「ベテルでの体験」(創28章)などを与えます。それがヤコブが神の契約の民として新たに生まれる実際的なプロセスでした。ここで私たちは、神の摂理が「一度きりで」完成されるわけではないことを再認識します。ヤコブは祝福を受けても、すぐにすべてがうまくいくわけではありませんでした。家族を離れ、母方のおじラバンのもとで多くの苦労を味わなければなりませんでした(創29~31章)。しかしこの一連の過程を通して彼は「イスラエル」へと変えられるための訓練を受け、最終的に神の契約の民としてしっかりと立つことになります。

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現代において、私たちが教会を築き共同体を導いていく歩みも、これとよく似ています。目の前の飢えや財政難、組織運営の複雑さ、人間関係の衝突などは、いつも私たちに即時の対応を迫ります。私たちはそのたびに「もう耐えられない。ここで諦めよう」という誘惑を感じます。しかしその時こそエサウを思い出すべきなのです。今直面している問題を解決するために、神がくださった根本的な契約と使命を捨てるような決断をしてはいないか。「張(チャン)ダビデ牧師」が繰り返し語るように、「私たちはどれほど苦しくても、この福音とこの契約、この歴史を売り渡しはしなかった」。この告白は私たちの人生にもそのまま当てはまるはずです。

もし私たちが長子の名分を守ることに失敗するなら、後の世代から「なぜあの時、神の契約を守り抜けなかったのか」と責められるかもしれません。あるいは、私たちの次の世代が「父や母、あるいは信仰の先輩たちは、なぜ神の御心と福音を粗末にして目先の利益を追いかけたのですか?」と問いかけるかもしれません。それはあまりにも悲惨な結末です。ヤコブは苦しく弱い状況でも、決してそれを売り渡しませんでした。むしろ「私に誓ってください。それを私に売りなさい。神に誓ってください」と堂々と要求しました。これは彼が信仰的にどれほど切実で真剣だったかを物語っています。

創世記25章27~34節に描かれたエサウとヤコブの物語は、「運命の岐路」という視点から見ると、エサウが当然長子でありながら軽々しく手放す瞬間に運命が変わり、ヤコブは不十分な存在ながらも祝福への熱望によって運命を変えて奪い取った事件と言えます。この岐路でエサウは「赤い煮物」にすぎない世の欲望に屈し、ヤコブは「目に見えない価値」を求めて踏み込んだのです。たしかにヤコブの取った手段は決して理想的とは言えません。しかし本文が伝えようとしている核心は、手段の是非を超えて、「祝福に対して真の渇望を抱いていたのは誰か」という問いにあるのです。

「張(チャン)ダビデ牧師」の説教を通して、私たちはヤコブの物語が単なる昔の家族史や兄弟喧嘩を記録した逸話ではなく、現代を生きる私たちの信仰と人生に直接の挑戦と教訓を与えることを悟らされます。第一に、運命論的な態度を捨てねばなりません。長子だからといって自動的に祝福が継承されないという事実は、いくら信仰の家系に生まれ、教会に長く通っていても、自ら霊的価値を握らなければ意味がないことを示唆しています。第二に、天幕を守ることの大切さです。ヤコブは野外で狩りをするというよりは天幕を守り、家族を支えていました。ここには「神の歴史を守ろうとする姿勢」が象徴的に含まれています。第三に、決定的瞬間にためらわない大胆さが必要だということです。普段はおとなしかったかもしれませんが、長子の名分を譲り受ける時、そして父の祝福を奪い取る時、ヤコブは思い切って行動しました。その結果、最終的には勝利者となりました。

このすべての過程で見落とせない要素は「福音を伝える霊的親」あるいは「知恵者の助け」です。リベカがいなければ、ヤコブはその計画を実行できなかったでしょうし、ひどい目に遭ったかもしれません。同様に私たちの信仰生活においても、信仰の先輩の助けや霊的指導のプロセスは絶対に重要です。ですが最終的に祝福を掴むのは本人の役割であることを忘れてはなりません。

私たちはヤコブの物語を通して、神が選んだ者にはいかなる経路であれ祝福を許され、その祝福がいかに尊いものであるかを改めて知らされます。そしてこの祝福は単に財産や世的成功を意味するものではありません。アブラハムに与えられた神の契約に基づき、やがてキリストによって完成される救いの歴史に参与する霊的遺産であり特権です。エサウのようにそれを安値で売り渡すこともできれば、ヤコブのように粘り強く掴むこともできます。人から見れば狡猾に見えたとしても、「決断して従い、知恵を受け入れる姿勢」があるならば、神の契約はついにその人を通して輝くのです。

これこそが「張(チャン)ダビデ牧師」が繰り返し語る教訓です。教会の中でも個人の霊性の歩みの中でも、私たちはヤコブのしつこさと決断力を学ぶ必要があります。祝福は簡単には得られないものであり、その祝福を維持するためには絶え間ない忍耐と献身が求められます。その過程で私たちは「日々死ぬ」霊的訓練を通して、世の欲望やむなしい偶像崇拝を捨て、ひたすら神だけに頼らなければなりません。こうして見ていくと、ヤコブの物語の中には当時の家族史や社会文化的背景を超えた、深い信仰的洞察が宿っているのがわかります。

長子の名分を軽んじたエサウは、自分が享受し得たはずの巨大な霊的遺産を失い、ヤコブはその機会を掴み「イスラエル」という名を得て十二部族の父となりました。私たちがこの事実を覚えているならば、目の前の利益のために霊的価値を放棄する愚かさを避けることができるでしょう。同時に、たとえ弱く足りなく見えても、神はその内に祝福を慕い求める心を持つ者を立ち上げて用いられるという希望を持つことができます。創世記25章の物語は、決して昔のある家族の衝突で終わるものではありません。これはメシアの系譜へと繋がり、最終的に人類の救いの歴史に大きな影響を及ぼしました。そして今日、教会がこの福音の上に建てられ、私たち一人ひとりも信仰によってその契約に参与しているのです。

「張(チャン)ダビデ牧師」が説教を通して何度も強調するのは、「運命論」ではなく「信仰の決断」ということです。神が「年長者が年少者に仕える」と早くから宣言されていても、ヤコブ自身がその予言的言葉を握らなければ、結果は違ったものになったかもしれないのです。同様に、私たちに大きな契約とビジョンが与えられていても、それを掴もうとする熱い思いと決断がなければ、その祝福は他の誰かに渡ってしまうでしょう。これこそが聖書が私たちに教える明確な真理なのです。そしてこの御言葉は、日々の生活の場面で何度も適用されていきます。

創世記25章27~34節に記されたエサウとヤコブの物語は、信仰において最も重要な二つのことを思い起こさせます。第一に、空腹や世の欲望など一時的で肉体的な満足のために霊的価値を売り渡す態度は、取り返しのつかない損失を招くという事実です。エサウはその後いくら泣き叫んでも、失った祝福を取り戻せませんでした。第二に、ヤコブのように一見弱く見えても、神の祝福を絶対に手放さないと決断する者は、人間的な欠点があっても最終的に神の契約を成就する器となり得るということです。この二つの事実を絶えず胸に刻むならば、今日私たちの信仰も世の中で揺さぶられることなく、神の約束を握り締める立場に立つことができるでしょう。

今日も私たちの人生には、さまざまな分かれ道と選択の瞬間が訪れます。そのたびにヤコブの知恵と決断力、そしてリベカを通じての霊的継承と導きを思い出し、「赤いもの」に心を奪われないように目を覚ましていなければなりません。そして「張(チャン)ダビデ牧師」が強調するように、神の歴史は運命的に与えられるものではなく、信仰による選択と決断があってこそ、初めて私たちの人生に具現化されるのだという事実を忘れてはなりません。それこそが、エサウとヤコブの物語が現代を生きる私たちに投げかける、最も本質的でありながら実践的なメッセージなのです。

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って来て、我らを助けてください – 張ダビデ牧師

Ⅰ. 使徒行の核心
使徒行伝は初代教会の歴史と福音が拡大していく過程を示す重要な書であり、ルカによって書かれたルカの福音書とあわせて、初期キリスト教共同体に対する洞察を提供する。実際、初代教会の中にはルカの福音書と使徒行伝を最も重要な聖典とみなしたグループもあったほどで、この2巻を理解することは初期信仰共同体の根と遺産を知るうえで欠かせない鍵となる。さらに、新約聖書の中で四つの福音書と使徒行伝を合わせた五つの書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの各福音書と使徒行伝)が、福音書と歴史を結ぶ中心的役割を果たすため、内容を暗記してでも繰り返し思い起こせるほど熟知すべきだという言葉があるほど、キリスト教信仰にとって必須の文書だと言える。

使徒行伝には、イエス様の昇天後に聖霊が下り、それに伴って福音がエルサレムをはじめとするユダヤとサマリア全域へ広まり、ついには地の果てにまで拡散していく歴史が多面的に記されている。そしてその過程で、パウロ使徒が登場し、福音をヨーロッパ大陸へまで伝道していく旅路が比重をもって扱われる。エルサレム会議を通した異邦人への福音拡大、各都市での宣教と迫害、教会設立、パウロの獄中での働きなどが計28章にわたり詳しく描かれている。

このように使徒行伝を読み込むことは、単に歴史的事実を知るだけでなく、「聖霊の導きが現実世界の中でどのような業を起こされるのか」を具体的に知ることを意味する。神はパウロや初代の弟子たちに直接語りかけたり、幻や感動を与えたり、道を閉ざしたりすることで宣教の方向を定めておられた。コリントやピリピへ行く道が大きく開かれる一方、ビテニヤへ行こうとしても行けなかったことに見るように、聖霊はいつも一方的に「開いてくださる」だけでなく、「閉ざされる」お方でもある。これは現代の信仰者が自身の進路や働きを決定する際にも、神の主権的導きについて深く黙想するきっかけになる。

代表的な例が、まさに使徒行伝16章にあるパウロ一行の第2回伝道旅行である。「聖霊がアジアで御言葉を語ることを許されなかった(使徒16:6)」「ムシヤの境に近づいてビテニヤへ行こうと試みたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった(使徒16:7)」という記述は、パウロが準備し計画していた道が閉ざされることがあるという事実を示している。人間の考えでは行こうとしていた伝道地であっても、聖霊はその道を許されなかった。結局パウロはトロアスに至り、マケドニア人が「渡ってきて私たちを助けてください」と叫ぶ幻を見て、西方のヨーロッパ大陸へ足を向ける。その結果、あの有名なピリピ教会が設立され、福音が西方世界へ本格的に進出することになった。

この場面は、人間の思いではなく「神の御心とタイミング」が歴史の中でどのように実現されるかを深く考えさせる。今日、張ダビデ牧師をはじめとする多くの牧会者たちも、この原則を信仰と教会の実際の働きに適用しようと努めてきた。宣教や開拓の方向性を決める際に、自分に開かれているように見える道があったとしても、ときに聖霊が備えておられる別の道があることを信仰によって受け入れる必要があるということだ。教会史を振り返ると、多くの宣教師が特定地域へ向かおうとしても、病や財政問題、環境問題などにより扉が閉ざされ、神が見据えていた他の地域へ宣教の場が移った後に、より大きな実を結んだ例は少なくない。これは「自分が望んだ道が閉ざされるなら、そこには必ず神のご計画がある」という確信をもって、諦めるのではなく「前へ進み続けよ」というメッセージを投げかける。

イエス様の御言葉の中で、終末論的な預言と教えが圧縮されている部分はオリーブ山の説教(オリベット・ディスコース)として知られている。マタイの福音書24-25章、マルコ13章、ルカ21章に共通して記録されているこの説教は、イエス様がオリーブ山で世の終わりに起こる徴を預言された場面に由来する。「オリーブ山に座られたイエス様(マタイ24:3)」に対して弟子たちが「あなたの来られる時と世の終わりにはどんな徴があるのですか」と質問し、それに答える形で進行する。イエス様は最後の時代に「偽メシア」たちが現れ、多くの者が「私の名によって来る」と人々を惑わし、「私はキリストだ」と言って混乱に陥れると警告された。つまり、ただイエスのみが「道であり真理であり命(ヨハネ14:6)」であるにもかかわらず、世の終わりが近づくほど多種多様な異端的教えや代替的な道が登場し、混合主義や多元主義が蔓延するということである。

現代社会の思想的潮流として挙げられるポストモダニズムは、「絶対的なものは存在しない」という懐疑主義に基づき、すべてを解体してあらゆる真理を相対化できると主張する。そのため、「一つの絶対的真理ではなく多様な真理が併存し得る。どの道を選んでも有効だ」という多元主義が横行する。しかしキリスト教の立場は、使徒行伝4章12節の「この御名(イエス)以外に救いはない」という宣言の通り、救いは唯一イエスにのみあるということをはっきり告白する。オリーブ山の説教でもイエス様は、終末の時代に多くの人が混乱に陥るが、真理を堅く守る者だけが惑わしから免れると強調された。ゆえに「イエス以外に道はない」という“Only Jesus(ただイエスのみ)”の信仰を守ることが終末論的信仰の中心になる。

張ダビデ牧師はこのような終末論的視点とイエス様の「ただ一つの道」という思想を説きながら、教会がもしポストモダニズムの多元主義的思考に染まる恐れがないか、常に警戒すべきだと強く訴える。人間が自由や多様性をかかげて作り出した数多くの「代替の道」は、結局「神なき道」になるリスクが高く、イエス様が別れの説教(ヨハネ14章)や山上の説教、そしてオリーブ山の説教で直接警告された「最後の時の惑わし」に対抗する最重要の武器は、ただ御言葉と聖霊であるためだ。

さらに教会がポストモダニズムに対抗してどう福音を守るべきかを問う中で、伝統的改革派教会(Reformed Church)の重要性が一層際立つ。宗教改革の中心的精神は「聖書へ帰れ(Sola Scriptura)」という合言葉に集約され、それは御言葉と聖霊を通して真理を守り伝え、神の前での信仰の本質を堅く保とうとする態度にある。張ダビデ牧師をはじめ多くの人々が「改革派教会はさらに聖書へと近づかなければならない」と叫び続けるのも、教会の霊的冷却を防ぎ、終末に備える正しい信仰の姿勢を保つためだ。イエス様が「不法がはびこるので多くの人の愛が冷えます(マタイ24:12)」と語られた預言が、今日の教会内部で現実になる可能性を見ればこそ、真理にしっかり立つことが私たちの魂の「温度」を守る方法になる。

結局、使徒行伝が私たちに教える最も重要な真理は「聖霊が主導される福音宣教」であり、これはオリーブ山の説教などイエス様の預言的御言葉と一つにつながっている。イエス様ご自身が「この御国の福音はすべての国民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられる。それから終わりが来るのです(マタイ24:14)」と宣言されたことは、福音宣教が終末論的タイムテーブルを決定づける重要要素であることを示す。使徒パウロがトロアスでマケドニア人の幻を見て渡っていったように、現代の信徒たちも地の果てまで福音を伝える使命を忘れてはならない。イエス様を通さなければ神のみもとへ行くことができないのだから、教会は「渡ってきて私たちを助けてください」という世の嘆きを敏感に聞き取り、迅速に駆けつけるべきである。

特に張ダビデ牧師はここで、「神の子の現れを被造物が切実に待ち望んでいる(ローマ8章)」という箇所を改めて思い起こし、全世界がマケドニア人のような切実さを抱いて福音を待っていることを教会が忘れてはならないと強調する。救いとは、最終的に神を失った人間が回復されねばならない根本問題であり、世界のあらゆる「故障した被造物」を再び正しく動作させるには、設計者である神のもとに立ち返る必要があるからだ。イエス・キリストの福音によってのみ人間の根本問題は解決され、この道を知らせて伝えることこそ教会の本来の使命なのである。


Ⅱ.「渡ってきて私たちを助けてください」
使徒行伝16章に描かれたパウロのマケドニアの幻は、初代教会の宣教史に転機をもたらした重要な出来事であった。東へ向かおうと努力しても道が閉ざされたとき、パウロは確かな導きを受けて西方のヨーロッパへと向かうことになる。その結果、ピリピでルデヤをはじめとする人々と出会い、教会が設立され、パウロの影響力はギリシアを越えてローマにまで及ぶことになる。もしパウロが小アジア中心の宣教にとどまっていたら、キリスト教ははるかに限定された地域にしか広がらなかったかもしれないが、神の摂理は歴史の地形をひっくり返しながら、福音を西方世界へ大きく拡大されたのである。

張ダビデ牧師は、この使徒行伝の流れの中で、今日のアメリカが持つ宣教的立場と意味に注目している。アメリカはかつて「福音主義(エバンジェリカル)」色を強くもち、世界中へ多くの宣教師を派遣してキリスト教拡張に大きく貢献した。19世紀末から20世紀中盤にかけては、「大覚醒運動(Great Awakening)」によってアメリカ教会がリバイバルし、世界教会の宣教を牽引する中心軸であった。しかし現代に入り、アメリカの教会は世俗化、多元主義、自由主義神学の浸透によって徐々に衰え、かつての霊的な活力を失いつつある様相を否定できない。預言的視点で見れば、これはイザヤ書が警告する「あなたのぶどう酒には水が混じり、あなたの銀は滓(かす)となった(イザヤ1:22)」という御言葉のように、教会が本質を失うときに起こる霊的退潮の結果でもある。

だからといって、アメリカ教会が完全に崩れたわけではない。イザヤ6章13節にある「たといその地に十分の一が残っても、これもまた滅ぼされるが…聖なる種がこの地の切り株となる」という御言葉のように、ぶどうの木が切り倒されてもまだ残った切り株があるように、今も福音の火種が生き続ける教会や指導者たちが存在する。張ダビデ牧師は、「渡ってきて私たちを助けてください」というパウロ時代の叫びは今の時代にも響いている、と主張する。つまり、かつてアメリカが世界中に宣教師を派遣していた時代があったなら、今度は世界各国のキリスト者がアメリカへ“渡って行き”、再び教会を強固に建て上げ、その火種をよみがえらせて、再び全世界へ福音を送り出さなければならないというのだ。

実際、韓国をはじめとする各国出身のクリスチャンたちがアメリカ各州に教会を開拓し、新たなモデルを築いて次世代のリバイバルの火種を起こそうと試みる動きが少しずつ広がっている。一部の地域では孤立していた在米韓人教会や少数民族教会がより活発に活動し、多民族教会として成長したり、主流社会の中で影響力を発揮するために努力したりしている姿も見られる。重要なのは、この動きが単に「民族的優越感」や「文化的拡張」のためではなく、福音が持つ普遍的な力を改めて確認し、アメリカ社会において福音を回復し拡散することを目的としている点だ。

「マケドニアへ渡ってきて私たちを助けてください」という使徒行伝16章の言葉は、今日のアメリカだけでなく、世界のどの地域にも当てはまる。ある地域は福音が既に入って定着したかのように見えても、実際には文化的・思想的歪曲や教理的妥協によって霊的危機に直面している場合もある。そのような状況で「この地を回復させ、聖なる種を再びまくために、他の地域の教会よ渡ってきてほしい」という要請が生じる。教会がこの呼びかけに敏感に応じるとき、聖霊は歴史の方向を変えてくださるのだ。

張ダビデ牧師は「今日の教会は冷えつつあるが、主は絶えず教会を新たにされ、歴史を導いておられる」と説く。世界中から集まった移民共同体や改めて福音に目覚めた人々が、アメリカの50州に教会を開拓し共同体を築くという動きはその一例である。このような動きは、実際に宣教の地形を変え、地域教会を通してネットワークが拡張されていくとき、新たな福音運動が起こる。パウロがマケドニアの幻を見てすぐ応答したように、教会共同体も時代の召命を感じ取り、素早く実行に移すことが大切である。

いわゆる「アメリカが新たな宣教の夢を見ている」という宣言は教会内部、宣教団体、神学校、各教派などからしばしば聞かれる。かつてはアメリカが「宣教師を送り出す国」だったが、今は「宣教が必要な国」だという認識が広まり、国内外のキリスト者たちが協力して「再び預言せよ、再び福音を叫べ」という使命を改めて握っているのだ。ヨハネの黙示録10章11節「あなたは多くの民族と国民と言語と王たちについて、再び預言しなければならない」という一節が現代の宣教的文脈で再び注目されている。この御言葉を「すでに福音が入った場所も、実はもう一度福音を聞く必要がある」と解釈する人々もいる。

前述したポストモダニズム、多元主義、自由主義神学、世俗化などの潮流はアメリカの教会をはじめ、世界中の教会を揺さぶっている。教会が外形的には存在していても、内的には御言葉と聖霊の火が消え、福音の力が社会で役割を果たせなくなっている例も少なくない。これこそまさに「ぶどう酒に水が混じった」状態であり、霊的力を失った状況だ。しかし逆説的にいえば、こういう時代だからこそ「聖なる種」として主が用いられる人々が際立ってくる。大きく人数が多くて声が大きい群衆ではなく、少数であっても「十分の一」あるいはそれ以下の残りの者たちを通して神は新しいことを行われる。

張ダビデ牧師は、このような聖書的原理と教会史とを結びつけながら、「真理の御霊が臨まれるとき、イエス様が語られた言葉と示された愛を絶えず思い起こさせ、私たちを冷えないようにしてくださる」と強調する。宣教師や牧師、教会開拓者たちは神が誠実に遣わされる人々であり、しばしば厳しい環境下でも大胆に出て行き教会を建ててきたが、それはパウロが熱病にかかり、同労者たちが去り、道が閉ざされても再び立ち上がったという、使徒行伝的な宣教精神と一致している。

アメリカ各州に教会を開拓する計画も同じ流れの中にある。ある地域では既存の教会が弱体化し、福音が力を失ったように見えるかもしれないが、その地域に対する神のご計画があるならば、そこは再び「渡ってきて私たちを助けてください」という霊的呼び声を上げる可能性がある。この呼び声に応じて教会開拓と福音宣教がなされるとき、新しい共同体が形成され、その共同体が中心となって宣教が拡大する。こうした過程を通じて、一時停滞していた福音主義が再び蘇り、教会が「前線へと出て行く」宣教のエンジン役を果たすようになる。

マタイの福音書24章14節でイエス様が「この御国の福音がすべての国民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられる。それから終わりが来る」と宣言された御言葉は、教会に単なる責任感を与える以上に、「終末の時」を左右する決定的な要素が何であるかを示している。この言葉には「もし世の終わりが迫っているのなら、あなたがたはますます福音を伝えねばならない」という切迫感が込められている。一言でいえば、福音が全世界にあかしされる過程を妨げようとする勢力もあるだろうし、歴史的・文化的な障害も多いだろうが、それでもこの使命を果たそうと努力するとき、初めて終わりが来るのだという希望に満ちた展望が含まれているのだ。

歴史的にも教会が大きくリバイバルする時期には、必ず福音宣教と派遣(宣教)が伴った。18~19世紀にイギリスが世界各地に宣教師を送り出していた頃、国内ではメソジストや長老派などプロテスタント教派が大きく成長し、アメリカで大覚醒運動が起こっていた時期にも、内的な霊的刷新とともに海外宣教が盛んに行われた。このように、教会が自らの垣根の内側にとどまらず、「前へ進む」宣教マインドを抱くとき、聖霊のみわざがともに動く事例が多かった。

張ダビデ牧師も「教会が冷えてはならない」と繰り返し強調し、「宣教と福音宣伝への参加を絶やさない教会でなければ、いずれ冷え込むしかない」と指摘する。「ただ唯一の道であるイエス様を伝えることをやめてしまえば、教会内部の霊的情熱は徐々に冷め、世俗的思考が教会を浸食してしまう」というのが彼の警告だ。その意味で宣教は「霊的活力の回復」とも直結している。教会が外へと積極的に出て行き、新たな魂を受け入れ、世のただ中で福音にもとづく愛と真理を分かち合うとき、教会の内面的な温度もまた熱くなるのである。

このように「再び預言しなければならない」という黙示録的使命と「渡ってきて私たちを助けてください」という使徒行伝的要請が結びつくとき、現代キリスト教の宣教地形は驚くほど変貌する。地域教会が閉ざされていた垣根を取り払って、他の都市や他国へ渡り開拓を助けたり、ともに礼拝したり、さまざまな働きを共有したりするとき、ポストモダニズムや世俗化が生み出す墓場のような状況を蘇生させることができる。これはパウロが「夜に幻を見たとき、すぐにマケドニアへ出発しようと努めた(使徒16:9-10)」という聖句と正確に一致する概念であり、教会は一種の「パウロ共同体」となって、聖霊の導きに従って前進しなければならない。

張ダビデ牧師は、このような宣教的熱情を具体的に実行するため、実際に多くの教会開拓プロジェクトに携わり、また支援してきたことでもしばしば言及される。多地域や多国で開拓途上にある教会に必要な資源や人材を送り、宣教戦略を共有し、神学教育や奨学金を提供するなど、多様で実際的な方法で「ただイエス」の福音を証しする共同体を起こしていくのである。その一方で、こうした働きのすべてにおいて最も重要視するのは「私たちが主導する」のではなく「あくまで聖霊が導かれる」という事実を見失わないことだ。パウロがビテニヤへ向かおうとしたときイエスの御霊がそれを閉ざし、その代わりにマケドニアへ向かわせたように、宣教者は絶えず祈りつつ道が閉じる場合があることを念頭に置き、そのつどより開かれた道を探して素早く動く。

もちろん、大規模な宣教と教会開拓の働きには、霊的にも物質的にも多くの挑戦が待ち構えている。財政や人材、現地の言語と文化、法律上の問題など、さまざまな障害に直面し得る。しかし張ダビデ牧師は「神がすでに備えておられる時があり、備えておられる地がある」と語り、そうした苦難の道を「信仰の訓練過程」として捉えるよう勧める。初代教会がエルサレムで迫害を受けて散らされたとき、その散らされる出来事によってサマリアや異邦の地に福音がいっそう拡大したように、苦難や困難はむしろ神のより大きなご計画を成就する道具となり得るからだ。

それゆえ張ダビデ牧師は「私たちは地上で神の国とその義のために何をしているのか」という問いを常に投げかける。イエス様は地上でのご生涯の中で「まず神の国とその義とを求めなさい。そうすればこれらのものはすべてそれに加えて与えられます(マタイ6:33)」と教え、復活して昇天される直前には「ただ聖霊があなたがたに下るとき、あなたがたは力を受け…地の果てにまで私の証人となる(使徒1:8)」とお命じになった。これはまさに教会が存在する目的と方向性を的確にまとめた御言葉である。この方向を見失った教会や個人は、結局世の価値観に流され、霊的活気を失ってしまう。

アメリカであれアジアであれアフリカであれ、どこであっても「渡ってきて私たちを助けてください」という切実な叫びが聞こえる場所があるならば、教会は必ず応答しなければならない。これこそパウロから連なる「使徒行伝的宣教の遺産」であり、オリーブ山の説教が示す「イエス様の終末論的預言」を完成していく道でもある。結局、終末は「この福音が全世界に宣べ伝えられるとき」に訪れるのであり、教会には怠慢でいる余地がない。道が閉ざされたり、方向を見失ったりしても、聖霊が開いてくださる扉を最後まで探り、そこに全力を注がねばならない。

現代、この使命を継承して教会開拓のためのさまざまなプロジェクトや宣教戦略が提示されている。オンライン宣教、多民族宣教、移民者宣教、大学での宣教など、時代や場所に合わせた多様な方法論が試みられている。しかし本質は一つである。「ただイエス」こそ唯一の道であり、どんなに思想的・文化的挑戦が激しくとも、イエス以外に救いの名はないという福音の真理を守り伝えることだ。教会がこの本質を守れないならば、ポストモダニズムと多元主義に呑み込まれてしまう。しかしこの本質を守るならば、教会は必ずリバイバルへの道を歩むだろう。

張ダビデ牧師が、多くの説教やセミナー、集会などを通して強調してきた核心の一つもこれである。「イエス以外にも救いがあると主張する動きが出たとき、私たちは断固として戦わなければならない。しかし、終末論の解釈、前千年説・後千年説・無千年説のような議論は教会内の解釈の相違によるものであり、それ自体を罪に定めるべき対象ではない。終末論的手法はいくつもあり得るが、救いの道はイエスのみだ」という主張は、福音の唯一性と広い包容性の双方を認める態度である。前千年説か後千年説かにかかわらず、大切なのは私たちが今「福音を宣べ伝えること」を継続しているかどうかだということだ。

再びアメリカを例に考えると、かつて世界に大規模に宣教師を送っていた教会が、今は停滞期に入っている中で、神は別の国の聖徒たちを用いて新たな「宣教の風」を起こしておられるのかもしれない。そしてその宣教の目的地は皮肉にも「アメリカ国内の地域教会」である可能性がある。これは宣教が「中心から周辺へ」という一方向だけではないことを示している。歴史的にも福音は特定の地域にとどまることはなく、一方が冷え込むと別の場所から新たな火種が移され、再び燃え上がるということを繰り返してきた。

したがって、「渡ってきて私たちを助けてください」という呼びかけは昔の使徒行伝の時代にのみ通じる言葉ではなく、今の時代にも絶え間なく続いているものである。教会は「今、自分が渡っていくべき場所はどこなのか」を日々祈り、見極める必要がある。そして道が閉ざされているように思えても、「聖霊が私たちの行く道を閉ざされるとき」もあり得るし、その一方でどこかで必死に手を振り「助けてくれ」と求める幻を見せてくださることもある。重要なのは、パウロのようにただちに従う態度である。「夜に幻を見たパウロが私たちはすぐにマケドニアへ出発しようと努めた(使徒16:10)」という句は、信仰の実践が遅滞なく行われるべきことを教えてくれる。

張ダビデ牧師は、このような「迅速な従順」を重視しつつ、「状況や条件が完璧に整うのを待っていれば、その機会は過ぎ去ってしまう。神が時を定め、人と資源、財政を用意されているならば、私たちは信仰によって決断し動き出さねばならない」と促す。そして、そうして踏み出す一歩一歩が積み重なり、10年前には何の基盤もなかった土地に教会が建ち、20年前にはまったく福音が届いていなかった地域に多くの礼拝共同体が誕生することになる。実際、アメリカの各州で韓国の若い多くの伝道者たちが教会を開拓してきた例が、それを物語っている。初めは民家の一角で5~6人が集まって礼拝をささげていたが、10年後には数百人が礼拝する共同体へと成長したという話はあちこちに存在する。

最終的には、「渡ってきて私たちを助けてください」という使徒行伝16章の言葉が現代に再び召しとなるためには、教会は聖霊の導きを認識し、イエス様の御言葉が終末論的時計の核心であることを覚えていなければならない。唯一の道であるイエス・キリストを固く守り、この道を冷えないまま保ち続けなければならない。神が教会を通じて成し遂げようとしておられる宣教の使命が存在し、教会がその使命に応えるとき、歴史は再び動き出す。今日の教会が冷え込みつつある理由は、不法がはびこるからということだけでなく、突き詰めれば「福音を伝える情熱を手放してしまった」からだという指摘がある。教会が防御的な姿勢ではなく、再び「地の果て」に向かって積極的に進む宣教姿勢を取るとき、冷えていた情熱は再び燃え上がり、世界は教会を通して真の真理と愛を体験することになる。

以上のように、使徒行伝16章の「渡ってきて私たちを助けてください」という命令と、イエス様の終末論的教え(オリーブ山の説教)を重ね合わせると、なぜ教会が絶えず宣教へ踏み出すべきなのか、多元主義や世俗化に立ち向かいながらどのように真理を堅く保つべきなのか、そしてそのすべての過程でただイエス・キリストのみが救いの道であることを確信しなければならない理由が見えてくる。張ダビデ牧師をキーワードとして見るなら、彼もまたこの点を一貫して強調してきたし、実際の教会開拓や宣教プロジェクトを推進することで「聖霊が導かれる道」を先頭に立って実践しようとしてきた。このような信仰の歩みこそは、最終的にオリーブ山の説教が示す「世の終わり」が来るその日まで、教会が担う本分と責任だと言えよう。教会が真理と愛に満たされ、「この御国の福音が全世界に宣べ伝えられる」そのときにようやく終末が訪れ、その最終的完成へと向かうのがキリスト教信仰の大きな展望である。そしてその中で信徒は、「イエス以外には救いの名がない」という福音の核心と、「真理はあなたがたを自由にする(ヨハネ8:32)」という御言葉に基づく真の自由を味わい、神に完全に栄光を帰することができるのである。

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ピラトのもとに立たれたイエス様 – チャン・ダビデ牧師


1. ピラトの官邸に立たれたイエス ― 苦難の背景と人間の

ヨハネの福音書18章28節から19章16節までの本文は、イエス様がピラトの前に立たれる場面を中心に展開される、長い尋問と対話の過程を描いています。この箇所を詳しく見ていくと、人間の持つ悪と同時に、神の救いのご計画がどのように展開されるかが鮮明に示されています。とりわけヨハネ福音書の記者は、この過程を非常に長く丹念に描写しつつ、イエス様が単にユダヤの宗教指導者たちからの謀りごとだけでなく、当時の世界を支配していたローマの法廷にまで引き渡され、残酷な十字架刑に処せられたことを強調しています。ですから、この本文を読む私たちは、イエス様が受けられた甚大な苦難の意味を深く黙想する必要があります。同時に、私たちの信仰がどれほど簡単に偽善的な仮面をかぶり、真の敬虔を失いやすいのか、そしてそれがいったいどこまでエスカレートし得るのかを振り返ってみる必要があります。チャン・ダビデ牧師もこの本文の重要性を強調し、宗教的形式主義と人間のずる賢い偽善が、最後には真実を覆い隠してしまう点を繰り返し指摘してきました。

本文は夜明け頃、イエス様がユダヤの宗教指導者たちによってカヤパの法廷を経て、ピラトのいる官邸に連れて行かれる場面から始まります(ヨハネ18:28)。暗い夜が明けつつあるものの、イエス様にとっては縛られ、侮辱を受けたまま、さらに別の裁きの場へと引きずられる状況が続きます。すでにアンナスのもとからカヤパの家へ、そしてまた官邸へと引きまわされる間、主はあらゆる侮辱と暴力にさらされていたことでしょう。その道のりは非常に長く、大部分をお一人で担わなければならない孤独な道でした。ヨハネはこの孤独と孤立を見逃さずに記録しています。本来ならイエス様の弟子たちならば、その道を共に歩むべきでしたが、彼らは四散してしまいました。この点で私たちは自分自身の信仰を省みることになります。本当にイエス様と共に歩んでいるつもりでも、いざ主が最も苦しく絶望的な瞬間を迎えるときに、主をひとり残してはいなかったか、いつのまにか主とは別の道を歩んではいないか、という問いです。教会共同体の中でも、あるいは個人の信仰生活においても、主と共に歩むのではなく、独善的な道を歩んでいないか、常に警戒しなければなりません。チャン・ダビデ牧師は「孤独の道を歩まれるイエス様に、私たちはどう共に歩むことができるのか」という問いを、幾度も説教や著作で投げかけてきました。これは受難週や四旬節の間だけ考える問題ではなく、日常の瞬間ごとに、主が経験された孤独と苦難を共に思い巡らすべきだと強調しています。

もう一つ驚くべき対照として、イエス様を官邸に引き立てたユダヤの宗教指導者たちが、「過越の祭りを聖く守るため」に官邸の中に入らなかったことが挙げられます(ヨハネ18:28)。これはいかにも見苦しく、偽善的な態度をはっきり示しています。彼らは「ユダヤ人の指導者」であり、神の律法を解釈して民を導く責任を負う者たちでした。しかし、自分たちの内にはイエス様に対する憎悪と殺意が満ちているにもかかわらず、「異邦人の建物に入れば汚れる」という理由で、官邸に足を踏み入れなかったのです。過越という大きな祭りを聖く守りたいという態度自体は悪いとは言えませんが、問題は神の御子であるイエス様を、憎しみと陰謀によって殺そうとしている点にあります。自分たちの外面的な敬虔と宗教的儀式は守りつつも、より深刻で根本的な罪を犯すことに何のためらいもありません。実際にはイエス様こそ真の過越の子羊(第一コリント5:7)であり、その肉と血によって神へ近づく道が開かれたのに、彼らはそのイエス様を異邦人の権力者ピラトに引き渡しました。これは旧約が預言したメシア的出来事を完全に誤解しただけでなく、自らの悪を正当化しようとする極端な二重性の典型とも言えます。チャン・ダビデ牧師はこのような宗教的偽善を取り上げつつ、現代の教会と信者も他山の石とすべきだと何度も語っています。「私たちも外面的な義務や形式だけで信仰生活を済ませてはいないか。見かけは聖なる礼拝、清潔な儀式、欠けのない祭りを守っているようでも、実は内面的な罪や二面性を無視してはいないか」という鋭い問いを投げかけるのです。

続く本文(ヨハネ18:29以下)では、ピラトが外に出て来てユダヤ人たちに「この人をどんな罪で訴えるのか」と問いかけます。ピラトとしては、自分のもとに引き渡された被告が、本当にローマ法に違反する罪を犯したのかどうかを確かめる必要があったので、まず罪状を確認しようとしたわけです。ところがユダヤ人たちは「この人が悪人でなかったら、あなたに引き渡さなかったでしょう」(ヨハネ18:30)と答えます。これは、イエス様が具体的にどのようなローマ法違反を犯したかを証明するよりも、「すでに悪い者だから引き受けてほしい」という曖昧な言い回しにすぎません。ピラトが「それなら、あなたがたの律法にしたがって裁け」と言うと、彼らは「私たちには人を死刑にする権限がない」(ヨハネ18:31)と返します。つまり、彼らにはイエス様を生かしておく考えはまったくなく、必ず殺すために、ローマの死刑制度である十字架刑を手に入れようとしていたのです。このくだりは非常にゾッとする悲劇です。神の名を唱えながら、宗教的聖さを振りかざす者たちが、実は心の奥底ではイエス様への憎悪に満ち、「殺す権限」を渇望していた事実が露わになります。自分たちで石打ちにして殺すこともできたでしょう(ステパノの例を見ればわかるように)。しかし彼らはさらに残虐で恥ずべき十字架刑にイエス様を追い込もうとしました。イエス様に向けられた憎しみは、単なる誤解や対立を超えた、極端な暴力と悪意の結晶だったのです。

ヨハネの福音書18章32節で、ヨハネは「これは、イエスがご自分がどのような死に方をするかを示しておられたみことばが成就するためであった」と記録します。イエス様が異邦人の法廷、つまりローマ総督ピラトのもとに引き渡されたことによって、旧約の預言とイエス様ご自身の直接的な予告どおり、十字架にかけられることになったという意味です。イエス様はすでに「人の子は地上からあげられなければならない」(ヨハネ3:14、12:32)と何度も語られ、その「あげられる」とは「十字架の上に掲げられる」出来事を指し示していました。もしピラトに引き渡されなかったなら、イエス様は石打ちで殺される可能性もありました。しかし結果的にイエス様は、古代世界で最も残酷で恥ずべき処刑方法である十字架刑に処せられ、これはユダヤ人の狡猾な計算とローマの残虐な死刑制度が結びついた結果でした。チャン・ダビデ牧師はこの場面を解釈し、「人間が考案した最も極悪な方法で神の御子を殺した。しかし同時にその十字架が、最も完全な救いを成し遂げる場へと逆転する」という逆説を説教で繰り返し強調してきました。人間の罪がどこまでも深く重く現れるほど、神の救いのご計画はいっそう鮮明に示されるというのです。

このようにイエス様の死は、決して偶然や人間の陰謀だけで終わる出来事ではありません。神様は人間の極端な悪すらも、ご自身の救いのご計画を進める道具として用いられます。旧約のヨセフ物語(創世記50:20)のように、兄たちの悪意が結果的には命を救う大きな計画の中で用いられたように、イエス様の十字架の出来事も、神があらかじめ定めておられた代赎の道を実現するための過程でした。もちろん人間の悪が正当化されることはありませんが、神はそのすべての状況を主権的に治め、善へと導かれます。ここで私たちは世界を導かれる神の主権を深く信頼すべきことを学びます。ピラトの尋問が進む過程で、同時に「イエス様に果たして罪があるのか?」という本質的な問いに対峙します。結論はいつも「罪のない方」であり、どのような形でも罪状は成立しないということです。それにもかかわらず、最も残酷な犯罪人に下される刑罰をイエス様が受けられたという事実こそが、キリスト教福音の核心なのです。

ピラトがイエス様を尋問しながら「おまえはユダヤ人の王なのか」(ヨハネ18:33)と問うたとき、イエス様は「それはあなた自身の考えで言うのですか、それとも他の人が私についてあなたにそう言ったのですか」(ヨハネ18:34)と問い返されます。これは「本当にあなた自身が知りたい真理なのか、それとも他人が言ったことを疑いなく受け入れているのか」という意味として解釈できます。ピラトもまた、この問いに明確に答えられず、逆に「私がユダヤ人だとでもいうのか」(ヨハネ18:35)と返します。ピラトにとっては、ユダヤ教内部の問題、すなわちメシア論争には興味がなかったでしょう。ただローマ法に背く反逆者や暴徒であるかどうかを確認するだけで十分でした。だからこそ「おまえの国の者たちや祭司長が、おまえを私に引き渡したのだが、おまえはいったい何をしたのか」と問いかけるのです。「私はこの問題に関心がないのに、彼らがそこまでおまえを憎むのは、いったいどんな罪を犯したからなのか」という不思議さがにじむ問いでした。

実際、イエス様は大祭司たちの前で「おまえが神の子、メシアなのか」と問われ、「そうである」とお答えになっています(ルカ22:66-68)。さらに「今からのち、人の子は全能の神の右の座に着く」とお答えになり、事実上、メシア的権威を宣言されました。問題は、イエス様が何者かという真実を聞き、それを信じる意欲がまったくなかったことにあります。ユダヤの指導者たちはイエス様を排除することをすでに決めており、有罪にする口実だけを探していました。現代でも同じです。真理を聞きたいという「開かれた心」ではなく、すでに結論を決めておいて、自分の論理を後押しする証拠だけを探す態度であれば、どんなにはっきりした真実が示されても受け入れないでしょう。これが人間の硬直した罪性です。チャン・ダビデ牧師はこのような箇所を解き明かす際、「もし私たちが御言葉に対しすでに先入観や高慢な態度で満ちているなら、決して真の悟りを得ることはできない。最終的にはピラトのように、大祭司たちのように、自分の欲望を貫くことに急で、真理を失ってしまう」と語っています。

ピラトもまた真理を追求しようとしたというよりは、政治的妥協によって問題を円満に解決しようとした可能性が高いでしょう。彼はユダヤ人の祭りのときに囚人を一人赦免する慣例を利用してイエス様を釈放しようとし、「私はこの人に罪を見出さない」(ヨハネ18:38)とも公言しました。しかしユダヤ人たちは「この人を赦すなら、あなたはカイザルの友ではありません」という圧力をかけ、ピラトを追い詰めました(ヨハネ19:12参照)。結局ピラトは、暴動が起こることを恐れ、自分の政治的立場が危うくなることを回避するために、イエス様に十字架刑を宣告しました。ここにピラトの心にある恐れと、この世の権勢への執着が見えます。彼は一時は正しいことを行おうと心に決めたものの、その決意を政治的圧迫の前に捨て去ってしまいました。人間は権力と利益が絡む問題の前では、しばしば真理を捨てます。外側では大義や正義を言っていても、実際の損失を背負わねばならない状況に直面すると、自分を守るために不義な決断を下すことがあります。ピラトは「私は潔白だ」と手を洗いましたが(マタイ27:24)、決して潔白ではありませんでした。真理を見分けても行わなかった罪が、彼にあったからです。

このようにして私たちがヨハネの福音書18章28節から19章16節の中で見いだす人間像は、大きく二つに分かれます。一つは、宗教的熱心を隠れ蓑にして暴力と殺人を正当化しようとする偽善的な姿です。彼らは表面的な聖さや祭り、儀式を大切にし、自分たちの手で血を流したくないという理由で「私たちには死刑を執行する権限がないから、代わりにローマが処刑してくれ」と言いました。表向きは宗教的に「きよい祭り」を守りたいという体裁を保ちつつも、実際には神の御子を殺すことに率先したのです。もう一つの類型は、ピラトのように、真理については形式的な興味しか持たず、最終的には自分の政治的安全や権力を最優先する姿です。大祭司たちが悪意をもってイエス様を殺そうとしたとすれば、ピラトにはそこまでの悪意はなかったかもしれませんが、自分の保身のために真理を踏みにじった人物とも言えます。いずれも罪の形は異なるものの、その根底には人間の罪性があるという点で共通しています。チャン・ダビデ牧師は「宗教指導者の罪と世俗権力者の罪、そのはざまでいつも光と真理であるイエス様が顧みられず、苦しまれた。しかし驚くべきことに、その苦しみこそが私たちの救いを成就する苦難だった」とまとめています。ですから私たちは自分の内面を省み、ピラトのように真理の前でためらい現実と妥協してはいないか、大祭司たちのように聖さを名目に冷酷な判断をしてはいないか、徹底的に吟味すべきです。


2. 理の王であるイエスと私たちの信仰的

本文の流れを追っていくと、ピラトとイエス様の対話は「おまえはユダヤ人の王なのか?」という問いから始まり、最終的に「真理とは何か?」という問いに行き着きます(ヨハネ18:37-38)。ピラトが「真理とは何か?」と尋ねたとき、イエス様はすでにその前に「すべて真理に属する者は、私の声に耳を傾ける」とおっしゃっていました。つまりイエス様は、ピラトが尋ねるより前から「真理はご自身であり、その真理に属する人々はその御声を聞き分ける」と宣言されたのです。ヨハネの福音書全体の流れの中で見ると、イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちである」と語られ(ヨハネ14:6)、真理とは観念ではなく、イエス様ご自身を指すことがわかります。しかしピラトには、この「真理」という概念があまりにも抽象的で無意味に思えたかもしれません。彼は政治・行政の問題を処理する総督であり、哲学者や神学者ではなかったのです。したがって、「真理とは何か?」という彼の問いは、真に真理を求める探究心というより、「あなた(イエス様)が言う『真理』とやらが、この現実の問題解決に何の役に立つのか」という、一種の冷笑に近かった可能性もあります。

ここで私たちが覚えるべき事実は、真理は決して概念や観念ではないということです。真理はイエス様のうちに生きており、主が教え、行われたすべての働きによって明らかにされます。すなわち、真理は愛であり、罪人を救うための十字架の犠牲によって具体化された神の御心です。ですから「真理とは何か?」という問いに対して、イエス様はすでに十字架の死によって答えを提示されようとしていたと言えます。福音書を読んでわかる通り、イエス様の死は単にユダヤの宗教権力とローマの政治権力の結託による不可避な事件ではなく、ご自身を私たちのために進んで差し出される神の愛そのものです。人間の目には失敗や恥、敗北にしか見えなくとも、実際にはこれ以上に確かな勝利はありません。イエス様は「ユダヤ人の王」であられ、同時にすべての民族とこの世界の王でもあられます。しかしその王位に就かれる方法は、世の権力者が追い求める暴力や抑圧ではなく、仕えと犠牲の道でした。十字架の上でイエス様は「わたしの王国はこの世に属するものではない」(ヨハネ18:36参照)とおっしゃいます。これはローマやユダヤの指導者たちが計算する「権力と覇権」の方法で統治するお方ではないことを意味します。

真の王であるイエス様は、罪と死の力に囚われた私たちを解放するため、十字架で死なれました。そしてその死から三日目に復活され、死に打ち勝ち、新しいいのちを開いてくださいました。では、この真理に対する私たちの信仰的応答はどうあるべきでしょうか。チャン・ダビデ牧師は多くの説教で「真理に属する者はイエスの声を聞く」という言葉に基づき、「聞いて従う信仰」の重要性を強調しています。真理は頭で同意するだけの観念ではなく、私たちの全人格をとらえ、人生を変革する力であるというのです。現代を生きる私たちも、ピラトのように「真理とは何か?」という問いを冷笑的に投げかけ、政治的で現実的な問題の中でただ損得勘定だけで反応してしまう恐れがあります。あるいは大祭司たちや群衆のように、宗教的熱心や形式はありながら、実際には自分の益を追求したり、排他的・暴力的な態度を取ってしまう可能性もあります。しかしイエス様は、私たちにとって真の王であり、真の真理そのものです。その方と結ばれる者は、この地上で一時的に消えていく権力や快楽の誘惑に留まらず、永遠に変わらないいのちの道を仰ぐことができます。

イエス様はピラトから宣告を受けられた後、十字架刑を負ってゴルゴダの丘を登られました。その過程で多くの嘲りを受け、兵士たちはイエス様に茨の冠をかぶせ、「ユダヤ人の王万歳」とあざ笑いました(ヨハネ19:2-3)。しかし、その重い十字架を背負われたイエス様の姿こそが、逆説的に真の王の威厳を明らかにした出来事でした。世の権力は武力や財力、排他的な暴力によって権威を打ち立てようとします。ところがイエス様は、そのすべての暴力と罪の重荷を進んで担われ、私たちに「神の国」とは何であるかを示してくださいました。福音書が繰り返し証しするように、イエス様は貧しい人や弱い人に近づき、罪人の友となられ、社会から疎外された人々と共におられました。神の国とは、支配してあがめられる場ではなく、愛によって仕え、聖さと正義によって治める場であることを、身をもって示されたのです。チャン・ダビデ牧師は説教や著述で「キリストの王職は苦難と犠牲の上に打ち立てられたのだ」としばしば強調しています。王であるイエス様が最も低いところにまで降られた事実から、私たちは「神の国」が持つ独特の価値を再発見すべきなのです。

十字架の道は、人間的な視点から見ると恥や失敗にしか映らないかもしれません。しかし信仰の目で見ると、その道こそが神の愛と義が完成される場です。ヨハネの福音書19章16節を通して、イエス様が死刑判決を受けて十字架を背負って行かれる場面へと本文は続いていきますが、その道のりで主はどれほど多くの嘲りと苦痛に耐えられたことでしょう。しかし、その苛酷な苦しみをすべて負われて成し遂げられたのは、私たちの救いでした。そして復活によって、罪と死に永遠の勝利を収められた王となられたのです。これは旧約の詩編や預言書が予告していた「正しい王」の実現であり、同時に私たちが栄光のうちに仰ぎ見る勝利の姿でもあります。その勝利とは、世の基準で言う武力や軍隊、権勢ではなく、仕えと慈しみ、そして自己犠牲にほかなりません。

では、この福音の物語が今日の私たちの生活にどんな挑戦をもたらすのでしょうか。まず第一に、私たちは宗教的形式主義と内面の偽善の隔たりを常に警戒しなければなりません。ユダヤの指導者たちが見せた態度を見れば、過越の祭りを聖く守るために官邸に入らなかったにもかかわらず、イエス様を十字架に引き渡すという矛盾を平然と行っていました。ここで私たちは「自分は果たして、どれほど宗教的義務や儀式を熱心に守りながら、肝心な愛と正義の実践には無関心でいるのか」と自問せざるを得ません。チャン・ダビデ牧師は「表面的にはあらゆる儀式を正しく守っているようでも、心の奥深くでイエス様を日々裏切ってはいないのか」と自己省察を促します。教会生活が長く、奉仕や礼拝参加に慣れるほど、形式だけが残り、熱意と真実さが失われる危険があることを気づかせてくれます。

第二に、真理に属する者としてイエス様の声を聞く生活が大切です。ピラトの「真理とは何か?」という問いに、イエス様は答えを避けられたのではありません。すでに以前に「私の国はこの世に属するものではない」と語り、真の王であることを示され、「真理に属する者は私の声を聞く」とおっしゃったのです。問題はピラトが、その御言葉が実際に何を意味するのかを知ろうとも求めようともしなかった点にあります。彼にとって優先すべきは「政治的混乱を収拾する」ことであり、結局真理をはっきり認識しながらも、それを黙殺してしまいました。私たちもこのように、世の仕事や名誉、生活の利便性、あるいは恐れのために真理と妥協してしまわないよう、注意が必要です。ときには真理のために犠牲が伴ったり、葛藤が生じたり、名誉や財産を失うような事態に直面することもあるかもしれません。しかし「真理に属する者」であるなら、喜んでイエス様の声に従うべきです。イエス様の教えは愛、赦し、仕えの道であり、自己否定を通して得られる復活への道です。チャン・ダビデ牧師は、このような真理への従順の道について、「十字架は私たちを快適にするためではなく、私たちを砕いてもっと高い次元の生き方へ導くため」と強調しています。

第三に、ピラトの前に立たれたイエス様の悲惨な受難は、主の徹底した従順を示しています。イエス様はゲッセマネの園で「この杯を私から取り除いてください。しかし私の思いどおりではなく、御心のままになりますように」(マタイ26:39)と祈り、神の御心に完全にご自分を委ねられました。これは人間的には最も苦しい選択であり、実際十字架での死は想像を絶する残酷さを伴うものでした。しかしイエス様はピラトに引き渡される間も沈黙を守り、無罪である自分を大きく訴えたり、無念さを訴えたりするよりも、「父がくださる杯を飲むべきではないか」(ヨハネ18:11)という姿勢を貫かれました。最終的にイエス様が示された従順は、信者が見倣うべき信仰生活の本質となります。私たちは生活のさまざまな領域で、自分の思いと神の御心が衝突するときがあります。そのたびに「主の道」を選ぶことは決して容易ではありません。世俗的な観点では損が伴い、場合によっては周囲の嘲りや誤解を受けることもあるでしょう。しかしイエス様が十字架の道を歩まれ、復活の栄光を得られたように、私たちも最終的には神の御心に従うとき、永遠の命と喜びにあずかるのです。

最後に、真の過越の子羊であるイエス様を私たちがどう受け入れるかという問題を考える必要があります。ユダヤの指導者たちは「私たちには人を殺す権限がない」と言ってイエス様をピラトに引き渡し、結果として十字架で血を流させました。ところが皮肉なことに、その子羊の死こそが人類の罪を贖う贖罪の出来事となりました。出エジプト記に記された過越の歴史的背景で、門柱に塗られた子羊の血は、滅ぼす者が通り越す徴となりました(出エジプト記12:13)。こうしてイスラエルはエジプトでの奴隷生活から解放される救いを体験しました。イエス様はこの過越の子羊の型を完全に成就された方であり、その血によって私たちに霊的解放が与えられます。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1:29)というバプテスマのヨハネの叫びが、十字架の出来事によって確かに証明されたのです。結局、私たちはイエス様の肉と血にあずかることで(ヨハネ6:53-57)、命を得て永遠の契約の中に入ることができます。ですから私たちの礼拝や祭りは、単に形や儀式を整えるだけでは完結できません。イエス様との真実な結合、その血潮による新しい生の体験が必ず伴わなければならないのです。もし大祭司たちのように外面的な清さだけを追い求め、イエス様ご自身を拒む態度をとるならば、信仰の本質から完全に逸脱してしまうでしょう。チャン・ダビデ牧師は「過越の完成は十字架、そして復活にあり、私たちがキリストにあって真の安息と自由を享受する道は、イエス様を私たちの人生の主として徹底的にお迎えし、従うことにある」と繰り返し強調しています。

結局、ヨハネの福音書18章28節から19章16節に至る長い本文の核心メッセージは、イエス様が十字架の道を歩まれる過程で露わになった人間のずる賢さと残酷さ、そしてそのただ中でも揺るがない神の救いのご計画に関するものです。ピラトは政治的計算と恐れのために真理を退け、ユダヤの指導者たちは宗教的熱心と偽善によって真のいのちの道を拒みました。しかし誰もこの尊い犠牲を阻むことはできませんでした。イエス様は最も恥ずかしく残虐な処刑法である十字架につけられ、私たちの代わりに死んでくださることで、罪と死の力を打ち砕かれたのです。ピラトが「真理とは何か?」と問いながらも答えを求めなかったように、私たちは「真理がイエス様のうちにあり、イエス様そのもの」と信仰で告白します。この告白こそが私たちの信仰の出発点であり、すべてでもあるのです。そしてイエス様の死が、単に私たちの罪がどれほど裁かれるに値するものかを示すことだけでなく、復活の命をも保証する霊的な道であると知るとき、私たちはその方への賛美と従順をやめることができなくなります。

いま私たちは十字架の前で自問すべきです。「私は本当にこの真理なるイエス様の声を聞いているだろうか。もしかするとピラトのように目先の政治的・社会的現実や、あるいは大祭司たちのように外面的な聖さだけを守って、真の真理を見て見ぬふりをしてはいないだろうか」と。真の過越の子羊であるイエス様を心からお迎えするならば、私たちの生活も日々主の死と復活を深く黙想することで、復活の命にあずかる喜びを味わえるようになるはずです。チャン・ダビデ牧師は、このような復活の信仰こそが教会共同体の根幹であり、この地上で神の国を生きる力であると説きます。教会の働きが形式的な宗教行事や組織運営だけに偏らず、愛と正義、赦しと和解の道を大きく開いていくのは、結局、十字架と復活に対する確信から始まるというのです。

イエス様がピラトの官邸に立たれたというのは、単なる歴史上の出来事ではなく、私たちが今日、真理に対してどのような態度をとり、その苦難にどう共に歩み、十字架の恵みをどのように受け取るかという永遠の問いかけでもあります。人間がいかに罪深く狡猾であろうとも、神は御子を通してその罪の本質を暴かれ、それを解決へと導かれます。たとえピラトやユダヤの指導者たちがいくら共謀し、偽善に陥っていても、結局イエス様を阻むことはできませんでした。同じように私たちもイエス様の十字架の愛にとらえられるならば、あらゆる罪や偽りから解放される道が開かれます。この恵みの道に自分を委ねる者は、もはやピラトのように真理を退けたり、大祭司たちのように偽善に陥ることなく、復活の力のうちに真の平安と自由を味わうことができるのです。これがヨハネの福音書18章28節から19章16節が私たちに投げかける深いメッセージであり、チャン・ダビデ牧師が長年、多くの説教や聖書講解を通じて強調してきた核心的真理です。何の罪もないイエス様が、最も苛酷な方法で殺されたのは私たちの救いのためであり、この福音こそが、すべての人に開かれた希望の知らせであることを忘れてはなりません。真理はいつも私たちを自由にします(ヨハネ8:32)。そしてその真理は、ピラトの官邸に立たれたイエス様が、その身をもって示してくださった十字架の愛と復活の力のうちにあります。私たちがこの真理を見失わず、ないがしろにせず、毎日の生活の中で思い起こし続けるとき、まさにそのときこそ十字架が新たに体験され、復活の喜びが私たちを変え、真理に属する者の生き方が現れてくるのです。

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滅びと苦しみがその道にあり – 張ダビデ牧師

以下の文章は、張ダビデ牧師のローマ書3章9-20節に対する講解説教を中心に、使徒パウロがすべての人間が罪の下にあることを宣言し、律法と恵みの関係、そして救いへの道が何であるかを力強く教えている内容をまとめたものです。特に「滅びと苦しみがその道にあり」という表現を通して、神を心に留めない人間の実態がいかに悲惨な破滅へと向かうのかを明確に示しています。本稿ではローマ書3章9-20節全体の注解と、詩編・伝道者の書・イザヤ書・創世記・ノアの物語・ヤコブの預言・ルカの福音書15章の放蕩息子のたとえや16章の金持ちとラザロのたとえ、さらにヤコブの手紙3章などへの関連言及をすべて含みます。また、この御言葉を通して明らかになる「人間の全的堕落」と「救いの必要性」に焦点を当てたいと思います。特に張ダビデ牧師は、本文で強調される罪の実態と、神から離れた生き方が招く破滅、そしてキリストにあってのみ見いだせる恵みを宣言しつつ、私たちが日々「罪の衣を洗わなければならない」と力説しています。


1. すべての人間が罪の下にある

ローマ書3章9節で使徒パウロは、「それではどうなのか。私たちはほかの人々より優れているのか。決してそうではない。ユダヤ人もギリシア人も、すべての人々が罪の下にあることを、私たちはすでに示したのである」と述べています。この御言葉は、すべての人間が罪の下にあることを明確に示す核心的な節です。ここでパウロが言う「私たち」とは、1世紀当時ローマの教会にいたユダヤ人と異邦人の両方を含むだけでなく、現代を生きるすべての信仰者をも含んでいます。すでにローマ書1章と2章で、パウロはまず異邦人がどのような罪の中にあるかを、次にユダヤ人がどのような罪の中にあるかをそれぞれ明らかにし、今やローマ教会の共同体全体を見渡しながら「私たちはほかの人々より優れているのか。決してそうではない」と問いかけます。これは、キリストを信じる者がたとえ救われた者であっても、依然として罪の影響下にあるという事実を改めて想起させる御言葉です。

張ダビデ牧師はこの本文を解説しながら、私たちは「すでに」救われている一方で、同時に「まだ」完全に聖化されてはいない状態にあることを常に自覚すべきだと強調しています。パウロが5章までで「信仰による義認」を説いたあと、6~7章で聖化の過程を説明し、8章に至って栄化の望みを語るというローマ書の構造自体が、それを示しているというのです。実際、7章の終わりでパウロは「ああ、私はなんと惨めな人間なのでしょう。この死の体からだれが私を救い出してくれるのでしょうか」(ローマ7:24)と嘆きます。これはすでに義とされた信者であっても、なお罪の名残と戦っている事実を示す代表的な例です。そのような戦いのただ中にいる教会共同体と信徒たちであるからこそ、「私たちはすでに義と認められたのだから、罪について語る必要などない」と安易に結論を出してはならないのです。張ダビデ牧師は、「罪を軽視する瞬間、人間の内に潜む罪性が再び私たちの心と行動を支配し始める」と断固として指摘します。したがって、ローマ書3章9節以下で展開される罪論は、すでに救われたと自負する者たちにも通じる警告であり、同時に教訓でもあるのです。

パウロは続けて、伝道者の書7章20節と詩編14編・53編、さらに預言書のいくつかの箇所を引用しながら「義人はいない。ひとりもいない」と宣言します。ここでパウロが用いている方法は、ラビたちが好んで使った「カラズ(charaz)」という手法、すなわち真珠の珠を糸に通すように、複数の旧約聖書の言葉を一つにつなげて論証を強化する方法です。パウロはユダヤ人に馴染み深い詩編や預言書の言葉を続けざまに引用し、結局「すべての人間は罪人である」という事実を「あなたがたがよく知っているあの御言葉によって」証明するのです。代表的な例は次のとおりです。

  • 「義人はいない。ひとりもいない」(詩編14:1-3、53:1-3)
  • 「善悪をわきまえる者もなく、神を求める者もいない」
  • 「彼らの喉は開いた墓のようで、舌には毒蛇の毒があり、その口は呪いと苦味で満ちている」
  • 「その足は血を流すのに速く、その道には滅びと苦しみがある」
  • 「彼らの目の前には神を恐れる畏れがない」

パウロが挙げるこの罪のリストと構造は、「神なき人間」の実存を告発するものであり、張ダビデ牧師はこれを解説する際に、特に三つの側面に注目します。

(1)思いと心から始まる罪

人間が神を心に留めることを嫌うことから罪が始まるということです。これはまさにローマ書1章28節の「彼らは心に神を留めることを好まず…」という言葉と正確に一致します。本来、神と人間の関係は「不可分」ですが、人間は自分の思いどおりに生きたいという高慢によって「神様、私の人生は私が自分で管理します。放っておいてください」と言い放ちます。その結末こそが「滅びと苦しみ」です。張ダビデ牧師は創世記3章でアダムとエバがみずから善悪の実を取って食べた出来事、ルカ15章で放蕩息子が父のもとを離れた出来事のすべてが、「神なしで生きたい」という高慢に根ざしていると解説します。

(2)思いと心から始まった罪は言葉に現れる

「彼らの喉は開いた墓、舌には毒蛇の毒、その口には呪いと苦味が満ちている」という表現がそれを示しています。心が腐ると口から腐ったにおいが漏れ出し、これこそが人間全体の堕落を露呈させます。張ダビデ牧師はヤコブの手紙3章を引用し、舌が持つ破壊力を強調します。舌は小さな器官ですが、人生全体を焼き尽くす火種のようなものだというのです。イエスも「もし右の目があなたをつまずかせるならばえぐり出せ。もし右の手があなたを罪に陥らせるならば切り捨てよ」と厳しく仰いましたが、それは罪の通路となる目や手(行動)、さらには決定的役割を果たす舌(言葉)に警戒せよという意味です。

(3)罪は行動へとつながり、足どりを左右する

「彼らの足は血を流すことに速い」という言葉からもわかるように、人間は神を心に留めないと、悪へ向かって急速に走り出します。張ダビデ牧師は「罪を犯すときの足取りは非常に速いのに、善を行うにはいつもためらう」という皮肉を指摘し、私たちの足取りや行動がどこへ向かっているのかを日々点検するよう勧めます。イエスが十字架を負うまで歩まれた道は苦難と献身の道でしたが、人間は本能的に自分の利益や快楽に直結する道へ、はるかに速く走っていきます。このような背景の中で「滅びと苦しみがその道にある」という言葉は、神なき人生の結末を最も端的に表しているのです。張ダビデ牧師は「この道を頑なに歩み続けるなら、人間は魂の滅びと永遠の苦しみを免れ得ない」と力説します。

加えて、張ダビデ牧師は、神を「恐れる(敬う)」心がないことが罪の究極的な証拠であると解説します。詩編36編1節を引用したパウロの言及、すなわち「彼らの目の前には神を恐れる畏れがない」とは、罪人が神を軽んじており、裁きを恐れないことをよく示しています。これは律法を持たないまま放縦に生きる異邦人であれ、律法を持ちながら偽善に陥ったユダヤ人であれ、あるいは恵みを知っていながら罪を大したことではないとみなす教会内の誰であれ、共通して当てはまる可能性があります。パウロはこのように人類全体が罪の下にあると重々しく宣言したあと、すぐに律法の機能について言及します。「私たちが知っているように、律法が語ることは、すべて律法の下にある者に対して語られたものです。それはすべての口をふさぎ、全世界を神の裁きのもとに置くためです」(ローマ3:19)。ここは、「結局、律法は罪を免除してくれる盾ではなく、むしろ罪を暴き、罪を罪に定める道具となる」という事実を示す箇所です。

実際、ユダヤ人は「私たちには律法があるから救いの特権がある」と考えていましたが、パウロは「もし律法を持っているならば、その内容をすべて守る必要があるが、本当に守れるのか?」と問いかけます。張ダビデ牧師はここで「律法の肯定的な機能」と「律法の限界」の両方をはっきりと見極めるべきだと言います。律法は罪を抑制し、罪を自覚させる有益な手段ではあるものの、人間を根本的に救いに至らせる方法ではないということです。むしろ律法は私たちの「口をふさいで」、誰も神の前で自分の義を主張できないようにさせます。これがパウロが述べるローマ書3章20節、「律法の行いによっては、だれ一人、神の前で義と認められない。律法によっては罪の自覚があるだけである」という宣言の骨子なのです。

このように「すべての人間が罪の下にある」という御言葉は、単に「絶望せよ」という意味ではありません。むしろ自分を頼みにせず、イエス・キリストへ目を上げる契機となるという点で、福音の序章でもあるのです。張ダビデ牧師はかくも詳しく「罪の構造」を明らかにしたあと、すぐに救いの道、すなわち「恵みの道」へ進むのがローマ書3章21節以下の核心テーマであることに注目すべきだと勧めます。しかし、その恵みを真に体験するためには、まず自分自身が「罪人の中の罪人」であることを認めなければなりません。すでに義とされたと高慢になってはならず、日々「罪の衣を洗い(黙示録22:14参照)」、御霊と御言葉の前に自分を照らし出す必要があります。

創世記に登場するノアの物語も、これをよく示唆しています。ノアは洪水の裁きから救われた「義人」でしたが、救いの後にぶどう酒に酔って裸の恥をさらしました。その姿を見たハムは、父をおおったはずなのに、逆に呪いを受けてしまいました。表面的に見れば「裸をおおったのになぜ呪いを受けるのか?」と疑問が浮かびますが、実はハムが父をあざけるような態度をとった、あるいは何らかの高慢な姿勢で見下したという解釈がなされることがあります。張ダビデ牧師はこれを「たとえ救われたとしても、罪に対して日々目を覚ましていなければ、ノアのように再び罪を露呈するかもしれないし、あるいはハムのように高慢の中に陥ることもある。ゆえに罪を扱うことには絶えず警戒が必要である」と要約します。

一方、創世記49章でヤコブが予言する中でユダに向けた言葉に「ぶどう酒で衣を洗う」という表現が登場し、これが「聖なる洗い」を暗示していることも注目に値します。ユダはやがて「笏(統治者の杖)」を持つ王の系譜として、最終的にはキリストの系譜が受け継がれる部族です。その予表であるユダの予言に「衣をぶどう酒につけて洗い、美しいぶどうの木につなぐ」というくだりがありますが、これは新約においてイエス・キリストの血(ぶどう酒)によって私たちの衣(義)が清められる「贖い」の隠喩へとつながります。張ダビデ牧師はこの場面を通して「日々イエスの血潮によって自らの罪の衣を洗うことこそが信者の本分である」と説きます。すでに救われたからといって、これ以上悔い改める必要がないと主張する教派や立場を批判し、むしろ終わりまで自らの罪を洗い清めようと努める者こそが、黙示録22章14節の「自分の衣を洗う者の祝福」にあずかるのだと付け加えます。

結局すべての人間は、神との不可分の関係の中で生きるように創造されたにもかかわらず、罪によってその関係が断たれました。それでもなお、人間は神を心に留めず、「神なしでも大丈夫」と愚かにも突き進むので、その道に「滅びと苦しみ」があるのです。目で罪を見て、舌で罪を吐き、足で罪へと駆け寄っていく総体的な堕落の只中で、私たちはどうすべきでしょうか。張ダビデ牧師の結論は「ただイエス・キリストの恵みと血潮にすがるしかない」というものです。ただし、キリストの恵みに至る前段階として、まず私たちは「自分が罪人であることを認める悔い改めの場」に進まなければなりません。パウロがローマ書7章24節で自らの惨めさを告白し、「だれが私を救ってくれるのか」と嘆いたあの姿こそが、信仰の出発点です。これがなければ福音も存在しません。罪が罪として見えなければ、恵みも恵みとして見えない――これこそローマ書3章9-20節の論旨です。

特にルカ15章の放蕩息子が父の家から遠ざかり、自分を放縦に任せた場面、そしてルカ16章の金持ちとラザロのたとえは、この事実をはっきりと示しています。放蕩息子は父との関係を断絶しましたが、最終的に絶望の果てで再び父を求めた時、救いを経験しました。一方、金持ちは毎日、自分の紫の衣と祝宴だけに没頭し、門の外で落ちるパンくずで生き延びていたラザロを無視し続け、死後には舌が焼ける苦しみを味わう地獄に投げ込まれました。彼は地獄の中で「自分の舌にほんの一滴の水だけでもつけてくれ」と懇願し、生きている自分の兄弟たちに「あなたがたもこの場所に来ることのないように警告してほしい」と嘆願します。これは、心で罪を選び、舌で罪を犯し、足取りで罪の道へ向かった者の最後がいかに悲惨かを劇的に示しています。

張ダビデ牧師は、ここで再び「舌」の役割を取り上げます。舌は善を伝える道具にもなれば、悪を撒き散らす道具にもなる。私たちの舌は神の御言葉を伝えて命を生かす「霊的な荷車」ともなり得ますが、同時に偽りや呪いをもって他人を滅ぼす「地獄の炎」となり得るのです(ヤコブ3:6)。金持ちとラザロのたとえの中で、金持ちが味わう地獄の苦しみの中心が「焼けつく舌の渇き」であることは、私たちの言葉と舌が罪と救いのあいだでどれほど重要な位置を占めるかを深く考えさせます。結論的に言えば、この第一の小主題である「すべての人間が罪の下にある」ことを明確に認識してこそ、初めて神の恵みと救いの道が必要だという真理に心を開くことができるのです。


2. 律法とみ、救いへの道

ローマ書3章19-20節は「私たちが知っているように、律法が語ることは、すべて律法の下にある者に対して語られたものです。それはすべての口をふさぎ、全世界を神の裁きのもとに置くためです。ゆえに律法の行いによっては、だれ一人、神の前で義と認められない。律法によっては罪の自覚があるだけなのです」と語ります。これは、パウロがここから本格的に「律法が罪の問題を解決しない」という点を明言する場面です。ユダヤ人は自分たちが「律法の所有者」であることを誇りとし、律法が「神の言葉」であること自体は誤りではありません。しかし問題は「律法を持っているからといって義とされるわけではない」ということです。張ダビデ牧師は「律法であれ、理性であれ、道徳であれ、人間の努力では決して罪の問題を根本的に解決できない」と繰り返し強調し、パウロが語る「恵み」へと視線を向けさせます。

律法が果たす役割は大きく二つあります。第一に、罪を自覚させる(ローマ3:20)。第二に、罪を抑制する(ガラテヤ3:19参照)。律法は人々に「これが罪だ」と教え警告することによって、ある程度罪を抑えてくれます。しかし、律法は罪を根こそぎ断つところまでは至りません。なぜなら罪の根は「神から断絶した心」にあり、この心の高慢と闇は、法的な条項を守る「行為」だけでは根本的に治癒されないからです。実際、パウロはローマ書7章で「律法を通して私は罪を知った。しかし知れば知るほど、むしろ罪がいっそう活発になる経験があった」と告白しています(ローマ7:8-11)。この逆説は、人間の堕落がどれほど根深いか、そして律法の持つ限界がどこまでかをはっきりと示しています。

では救いへの道はどこから開かれるのでしょうか。パウロは3章21節以下で「しかし今や、律法とは別に、神の義が現されました」と述べて、イエス・キリストによってもたらされた「神の義」を提示し始めます。まさにその神の義が信仰によって私たちに転嫁される(ローマ3:22)ことによって、私たちは罪人であるにもかかわらず「義とされる」のです。張ダビデ牧師はこの部分こそローマ書の要であり、福音全体の核心だと力説します。恵みの本質は「ただで与えられるもの」であり、私たちの功績や資格ではなく「ただキリストの十字架の功績」によってのみ成り立ち、それを信仰でつかむということです。

この理由からパウロは「律法の行いによって義とされるのではない」と断言します。もし行いで救いを得ることができるならば「誰でも誇ることができる」でしょうが(ローマ3:27参照)、すべての人間が罪の下にあるという前提と、律法では罪を根本的に消し去ることができないという前提から、ただ信仰によってのみ救いが可能だというわけです。張ダビデ牧師は「信仰」という言葉を解説しながら、これは人間側からの「受容」であり「信頼」であると説明します。つまり、神が恵みを与えてくださるのは全く神の愛によるものですが、その恵みが私たちに適用されるには、私たちの「アーメン」「はい」という応答が必要だというのです。これはまさに福音が宣教されるときや、悔い改めの告白をするとき、イエス・キリストを主また救い主と受け入れる過程を通して起こることです。

張ダビデ牧師はローマ書5章12節以下、すなわち「ひとりの人アダムによって罪がこの世に入り、もうひとりの人イエス・キリストによって救いがもたらされた」というパウロの論証こそ、この問題を最も明快に示すくだりだと付け加えます。ユダヤ人も異邦人もすべてアダムのうちにあって罪人となりましたが、イエス・キリストのうちにあって恵みを受けることができるという福音の原理が、ここで確立されるのです。

問題は救いの後の人生です。救われた信者もなおこの世に生きつつ「罪の勢力」と戦います。ノアが洪水の後に酒に酔って裸をさらしたように、救われたと安心した瞬間に私たちはまたつまずく可能性があります。そのためパウロは6章と7章で救いの完成過程である「聖化」を語り、8章においてようやく「栄化」に言及します。張ダビデ牧師は「義認が救いの出発点ならば、聖化は救いの旅路であり、栄化は救いの完成」であると要約します。そしてこのすべての過程においてイエス・キリストの恵みと聖霊の助けがなければ到底成し得ないことを繰り返し強調します。

創世記49章にある「ぶどう酒で衣を洗う」という予言は、やがてキリストが与える贖いの恵みを象徴すると同時に、すでに救われた者たちも絶えず自分を「洗わねば(清くしなければ)」ならないことを示唆しています。黙示録22章14節には「自分の衣を洗う者たちは幸いである」と宣言されていますが、そこには罪がまったくない人だけでなく、罪を告白し悔い改め、イエスの血潮によって日々洗われようと努める人々が該当するのです。一部の教派が「救われた後にはもう罪の問題を語る必要がない」とか「主の祈りの中の『罪の赦し』部分はもう必要ない」と主張するのは、聖書全体が語る救い・聖化・悔い改めの核心精神に反しています。張ダビデ牧師は「信者は日々『主よ、憐れんでください』という貧しい心をもって生きるべきだ。それこそが罪を自覚した者の正直で健全な姿勢である」と力説します。

さらに、人間が罪を軽んじるならば、再びその道には「滅びと苦しみ」が待ち受けます。ノアの後に人類がまたもや高慢になりバベルの塔を築いたように、私たちもいつでも恵みを忘れ「私の人生は私のものだ」という考え方に戻りかねません。そのたびに「滅びと苦しみ」という表現が、私たちへの警告灯のように鳴り響くのです。張ダビデ牧師は「滅びと苦しみ」は単に肉体的な苦難を意味するのではないと説明します。それは何よりも「霊的な滅びと根源的な苦痛」であり、神から切り離された魂が経験する最も深刻な状態を指します。人間は神なしには命を保つことができず、キリストにあってのみ真の平安(シャローム)を得るように造られているため、神を離れた場所には絶望と荒廃があるほかないのです。

ヤコブの手紙3章にある舌への警告もまた、救いの道を歩む信徒たちに継続的な注意喚起を与えています。「舌は火であり、不義の世界である」というくだりは、舌が誤って用いられるときにどれほど大きな破壊力を持つかを示しています。しかし、それと同時に、この舌が「神の福音を伝える道具」として用いられるときには、人を生かし、世界を照らす力となり得ます。張ダビデ牧師はローマ書3章に続けてヤコブの手紙3章を黙想してみると、「罪の下にある人間の舌」が「恵みの下にある人間の舌」へとどう変えられるべきかを具体的に悟ることができると強調します。教会の中でも舌によって互いに傷つけ合うことは多く、ときには言葉の暴力が肉体的暴力に劣らない恐ろしい結果をもたらします。したがって、救われた者は「新しい言葉」「新しい舌」へと変えられることを切に求めねばなりません。これは律法的な基準を超えて、「互いに愛し合いなさい」というイエス・キリストの新しい戒めを実践することによって実現されるのです。

最後に、ローマ書3章21節以下でパウロが伝える福音は「律法とは別に与えられた神の義」であり、それはイエス・キリストの贖いの御業によって成就されます。張ダビデ牧師はまさにここに救い論の核心を改めて強調します。パウロが2章と3章で罪を徹底的に指摘したあと、あえて「律法ではなく恵み」を説くのは、人が律法を完全に守ることは不可能であるうえに、たとえ外面的な遵守である程度律法に従えたとしても、最終的に心の中の罪までは解決できないからです。イエスが「殺してはならない」という律法を心の問題にまで広げて「兄弟に愚か者という者も裁きを受ける」と言われたこと、「姦淫してはならない」という律法をさらに「女を見て情欲を抱くこと自体が姦淫」とされた教えは、すべて「罪の根は心にある」という事実を思い出させます。

したがって救いは、外的行為を制限的に矯正する「律法」ではなく、心を新たにする御霊とイエス・キリストの血による「贖い」と「新生」から始まります。張ダビデ牧師はここで必ず「自分が罪人であることを認める霊的悔い改め」が伴わなければならないと強調します。パウロがローマ書7章で「ああ、私はなんと惨めな人間なのでしょう」と自己の無力さを告白したとき、初めて「私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します」と救いの賛美が続きます(ローマ7:25)。これこそが信仰の道のりで繰り返される原理です。私たちは罪を見出すたびに、再びイエスのもとに立ち返って赦しと力を得ます。その循環を繰り返しながら、私たちの魂は次第に聖化の道を歩んでいくのです。

結局、「滅びと苦しみがその道にある」という言明は、神なき人生が直面する運命であると同時に、「その道から立ち返れ」という神の切なる招きでもあります。金持ちとラザロのたとえに登場する地獄の金持ちは、生前は楽しみを得ていましたが、死後には水の一滴すら許されない絶望に閉じ込められました。しかし、放蕩息子は父の家から遠ざかっても、その道を最後まで突き進まずに「父の家に帰ろう」と悔い改めることで再び回復を得ました。張ダビデ牧師はこれを具体的にまとめ、「今まさに立ち返ることができるのが福音の力だ。まだ息をしている間は、私たちは悔い改めて再び父のもとに戻る機会が与えられている」と説きます。

したがって、律法と恵み、罪と救いの道を理解するカギは次のとおりです。

  1. 律法は神が与えた尊い賜物ですが、それ自体が救いの力とはなりえない。
  2. 律法が示す罪の実態を認め、その重荷から解放される道を探すときに、ただキリストの恵みのみがその問題を解決できることを信じなければならない。
  3. 信仰によって義とされても、なお罪との戦いは続くので、日々「ぶどう酒で衣を洗い(創世記49:11の象徴)」、御霊の導きを求め、「舌」と「足どり」と「目」を聖なるものに守ろうと努める必要がある。
  4. このすべての過程を可能にしてくださるのは神の御霊であり、私たちは「主よ、憐れんでください」というへりくだった告白をもってその御前に立つべきである。

張ダビデ牧師は、教会共同体がローマ書3章の罪論に向き合うとき、自分自身の罪を見つめることにとどまらず、周囲の魂にも目を配り、苦しみの中にいる人々に福音の言葉をかけるべきだと提案します。すなわち、舌を通じては「救いの喜ばしい知らせ」を宣べ伝え、足どりを通じては「イエスが歩まれた犠牲と仕える場所」へ進み、目を通じては「神が見せてくださる霊的ヴィジョン」を見つめるべきだというのです。人間の内に深く根を張る罪性はたしかに大きいものの、キリストの十字架の愛と復活の力はその罪性よりさらに大きい。これこそがパウロが「キリスト・イエスにある者には、もはや罪に定められることはない」(ローマ8:1)と大胆に宣言できた理由であり、私たちも同じ希望を抱ける根拠なのです。

結論として、ローマ書3章9-20節は、「ユダヤ人であれギリシア人であれ、みな罪の下にある」という宣言を通して、罪の本質と破滅的な結果を余すところなく示しています。その道に「滅びと苦しみがある」というのは、罪を選び神に背を向けた者の結末がいかなるものかを端的に示す御言葉です。これに対して張ダビデ牧師は、繰り返し「救われた聖徒たちといえども『私たちは他より優れているのか』と問えば、『決してそうではない』」ということを思い出させ、日々恵みのもとへ立ち返るよう促しています。律法は罪を自覚させるものの、律法を完全に守り抜き義を達成できる人はいないゆえに、最終的にはイエス・キリストの十字架の代償と復活を通してもたらされる「神の義」に頼るしかありません。この恵みが臨んで初めて、私たちの心・言葉・行動が新たにされ、ついには滅びと苦しみではなく平安の道(シャローム)へと進むことができるのです。これは、人間のいかなる知恵や努力によっても成し得ず、ただ聖霊のわざとキリストの愛によってのみ可能な道なのです。

張ダビデ牧師は、今日の教会がこの本文を通して「他人の罪だけを咎めることに急になる態度」から抜け出し、「自分こそまず罪人であると告白し悔い改める霊的刷新」へと向かうべきだと強調します。そしてその過程でこそ、兄弟姉妹を生かし、世に生きる人々に命の福音を提示する働き、すなわち舌をもって御言葉を宣べ伝え、足どりをもって仕えを実践し、目をもって神を仰ぎ見ることに献身できるのだと力説します。こうした姿勢が回復するとき、「滅びと苦しみ」の道から「平安と喜び」の道へと移される救いのわざが、個人と共同体の内に豊かにあふれるでしょう。

要するに、ローマ書3章9-20節は人間の罪の実態と、その悲惨な結末を余すところなく示しつつ、私たちに「神から離れた道から立ち返り、恵みの道に戻れ」と宣言しています。張ダビデ牧師のメッセージもまた、同じ招きです。「救われたあとも罪から完全に自由にはなれない私たちの現状を省みつつ、日々十字架のもとへ行き、キリストの血潮によって自分を清めよう。そうしてはじめて私たちは罪の支配から解放され、神の統治と恵みのうちに生きるようになり、最終的には『滅びと苦しみではなく、栄光と希望の道』を走ることができる」。これこそ本本文が内包する結論であり、律法と恵み、罪と救いの道を理解するうえで最も重要な要点なのです。

エルサレム会議とガラテヤ書 – 張ダビデ牧師


Ⅰ. エルサレム議と初代教会の救いの

エルサレム会議は新約聖書『使徒の働き』15章に描かれる出来事であり、初代教会の歴史全般にわたって深い意味と重要な転換点をもたらした。とりわけ「異邦人がいかにして救いにあずかることができるのか?」という問題を中心に、律法(特に割礼)遵守の必要性をめぐって起こった論争が核心であった。これは単なる教理上の争いというよりも、教会が誕生した当初から存在していた「ユダヤ的伝統の継承性と福音の普遍性とのあいだの葛藤」を劇的に示す事例である。

エルサレム会議にはパウロやペテロ、ヤコブといった中心人物が参加し、最終的には「異邦人もユダヤ人とまったく同じように、ただイエス・キリストの恵みによって救われる」という結論が導かれた。これによってキリスト教信仰のアイデンティティがより確固たるものとなった。この結論は後に宗教改革を通して再確認された「ただ恵みによる、ただ信仰による」(Sola Gratia, Sola Fide)という精神に直接つながる重要な礎石ともなった。張ダビデ牧師は、エルサレム会議が提示した救いの教理の核心的メッセージを21世紀の教会や宣教現場にそのまま適用しようと努めており、自身の説教や著作、教会開拓や神学校運営など多方面の働きに、この理念を一貫して反映させている。

エルサレム会議が招集された直接のきっかけは、パウロとバルナバが異邦地域(ガラテヤ、小アジア、アンティオキアなど)で福音を宣べ伝えるなかで具体的な対立を経験したことであった。異邦人のクリスチャンが福音を受け入れ回心する一方で、一部のユダヤ人出身のクリスチャンが「救われるためにはまず割礼を受け、律法を守らなければならない」と主張したのである。旧約時代を通して選民思想とともに強調されていた「割礼」は、たしかにイスラエルの民を象徴する絶対的なしるしであった。モーセの律法が示す種々の儀式の中でも、とりわけ割礼は「神の契約の民に属すること」を確認する核心的制度だったのである。

しかし、パウロとバルナバをはじめとする初期の異邦人伝道を積極的に進めていた使徒たちは、「異邦人にユダヤ的伝統を無条件に強制することは『福音の自由』を著しく損なうだけでなく、実際に福音伝道の門を閉ざす恐れがある」ことを伝道の現場で肌で感じていた。こうした問題意識が高まるなかで、教会の中心的指導者たちが一堂に会して正式にこの問題を協議することになったのである。

『使徒の働き』15章6節によれば、「使徒たちと長老たちはこの問題を論じるために集まった」と記録されている。彼らはその会議において、「果たして異邦人が救われるには律法遵守と割礼が不可欠なのか? それともイエス・キリストの十字架と復活を信じる信仰によって、すでに救いは十分に成し遂げられるのか?」という争点をめぐって激論を交わした。初期教会の内部にはユダヤ教からキリスト教に改宗した人々が多かったため、彼らの文化的・宗教的習慣や儀式は非常に根強かった。簡単に言えば、「旧約に書かれている律法を守ることが敬虔そのものであり、神の御心に従う最善の道」という確信が自然であったのだ。割礼はそうした伝統の代表格だったため、「異邦人も真の救いにあずかるにはイスラエルの民と同じ過程を踏むべきだ」という主張が出てきたのはある程度予想可能なことであった。

しかしパウロとバルナバ、そして初期の異邦伝道を主導していた使徒たちは、「救いは全的にイエス・キリストの恵みに基づき、その恵みを信仰によって受け入れる瞬間、罪の赦しと新しいいのちにあずかることができる」という福音の本質をしっかりと押さえていた。彼らが強調したのは、律法そのものを無視したり破壊したりしようという意味ではなく、「救いの本質」は律法ではなくイエス・キリストの十字架にあるという事実だった。割礼や律法の遵守は決して救いの条件にはなり得ず、旧約に予告された真の「義」はイエスのうちに完成したという主張である。パウロの書簡(特にガラテヤ書とローマ書)に明確に示されているように、この「信仰による義認」の思想こそが、初代教会をユダヤ教の垣根から解き放ち、全世界へと福音を広げていく基盤を築いたのだ。

会議が進むなかで、ペテロはコルネリオの出来事(『使徒の働き』10章参照)を例に挙げた。ユダヤ人であるペテロ自身が、異邦人であるコルネリオの家族に下った聖霊の働きを目の当たりにし、「神はすでに彼らにも救いへの門を開かれ、聖霊の注ぎによってそれを証明された」と体験したのだ。この出来事は、人が何らかの儀式的行為(割礼や清めの儀式など)を経て初めて聖霊を受ける資格が生まれるという概念を根底から覆す証言であった。コルネリオとその家族は割礼や律法遵守を前提とせずに聖霊を賜物として受け取ったことこそが、「神は異邦人を無条件で救いへと招かれている」という生々しい証拠である。これに対してペテロは「私たちと彼らの何が違うのか。神が許されたことを人間の伝統で阻むことなどできるだろうか」と強く訴えた。そして続く決定的な宣言が「私たちが主イエスの恵みによって救われると信じるのと同様に、彼らもそうなのである」(使15:11)という箇所である。ここで「私たち」とはユダヤ人出身の使徒や信者たちのこと、「彼ら」は異邦人を指す。つまり、ユダヤ人も異邦人も等しくイエス・キリストの恵みによって救われるという認識が明確に打ち立てられたのである。

会議の結論として、イエスの兄弟でありエルサレム教会の指導者であるヤコブは、イザヤ書やアモスなど旧約の多くの預言書にすでに「異邦人が主の御名を呼び、神に立ち返るようになる」という預言があったことを想起させる。彼は「ダビデの倒れた幕屋を立て直す」という神の約束が成就し、そこに異邦人も含まれることを強調した。そして最終的に、異邦人に対して「四つのことを避けるように」―偶像に供えられた肉、血、絞め殺した動物の肉、不品行―を求め、それ以外については律法の重荷を押しつけないことが決定された。この「四つのこと」は、命と聖別、そして偶像礼拝の問題に直接関係しており、異邦の文化圏で一般的に行われていた風習や習慣のなかでも「道徳的・霊的」な堕落の代表的な例とされている。すなわち、救いそのものは全的に恵みと信仰によって与えられるが、救われた者は神の聖なる倫理基準に従って生きるべきだという「バランス」を示したものと解釈できる。

張ダビデ牧師は、このエルサレム会議の出来事を「教会史上最初の公会議」と呼ぶにふさわしいと評価している。その理由は、当時の教会指導者たちが集まって単に「紛争」を丸く収めるだけでなく、福音の本質をはっきりと宣言したからである。「救いは人間の行いによるのではなく、ただ神の恵みとイエス・キリストの贖いの死、そして復活を信じる信仰に基づく」ということ――まさにこれがエルサレム会議の最大の遺産である。もしこの決定が異なっていたならば、キリスト教はユダヤ教の小派閥として終わり、異邦世界へと広がることは困難だったであろうし、福音の普遍性は大いに損なわれていた可能性が高い。しかしエルサレム会議の結論を通して、教会は「ユダヤ人にもギリシア人にも差別はなく、誰でもキリストにあって自由に救いにあずかる」という福音の主要な旗印を歴史の中で高く掲げ続けることができたのである。

このような「救いの普遍性」は、のちに宗教改革の主要精神となる「ただ恵みによる(Sola Gratia)、ただ信仰による(Sola Fide)」のうちに再確認される。ルターやカルヴァンなどがローマ・カトリックの功績主義・儀式主義的な傾向を批判して、「神の恵みなくしては人は救われず、人間は全的無力の中でただ信仰によって神に近づく」と強調したとき、彼らは本質的にはエルサレム会議で初代教会がすでに確認した救いの原理に訴えたといえる。張ダビデ牧師は、このような歴史的流れに着目し、エルサレム会議が宗教改革の思想、そして21世紀の教会共同体に至るまで絶えず受け継がれてきた「福音の基盤」を提示したと語る。そしてこの福音の基盤が揺らぐとき、教会は即座に「形式主義」や「世俗主義」の罠に陥りうると警告する。

では、エルサレム会議で語られた「四つの禁止規定」は今日どのように適用すべきだろうか。当時の文脈では、異邦人が主に食していた肉が「異教の神殿で捧げられた供え物」であったり、「残虐な方法で血ごと食べる行為」が頻繁に行われており、さらに倫理的堕落(性的放縦や不品行)が蔓延していた。そうした文化の中で育った異邦人クリスチャンに向けて、使徒たちは「もはや偶像を拝まず、命を軽視する暴力的行為を遠ざけ、不品行を慎め」という警告を伝えたのである。結局これは、救いがただ恵みによって与えられたとしても「救われた者として守るべき最低限の聖別と倫理」があることを強調したものだといえる。張ダビデ牧師は「救いと倫理は切り離せない」ことを力説し、もし教会が「ただ恵み」という名の下に放縦を容認するならば、初代教会がエルサレム会議で打ち立てた貴重な原則を見失うことになると批判している。

結局、エルサレム会議が持つ最も根本的なメッセージは二つに集約される。一つ目は「救いは律法によるのではなく、ただ恵みと信仰によって完成する」ということ。二つ目は「救われた聖徒は偶像礼拝や不品行、命を軽視する文化や慣習を捨て、神の聖なる御心に従うべきである」ということ。この二本の柱が調和するとき、教会は健全な福音共同体として立つことができる。張ダビデ牧師はこれを「福音の自由と共同体の秩序を同時に築く道」と説明する。自由が律法主義を排撃するいっぽうで、その自由が倫理的責任を無視しないように「基本的な聖なる方向性」を追求すべきだという意味である。こうしたエルサレム会議の伝統は、のちのパウロの書簡でも同様に流れており、特にガラテヤ書でその論理がより詳細に展開される。

張ダビデ牧師は、エルサレム会議の記録を使徒言行録的な重要証言として捉え、教会がいかにユダヤ的背景と異邦的背景を包摂しながら真の「エキュメニカル(ecumenical)」精神を実現できるのかについて深く黙想するよう促す。教会がどの時代、どの文化圏にあっても、救いの核心が「ただ恵みと信仰」にあることを決してあいまいにせず、かつ倫理と聖別の原則を守る範囲で文化的多様性を尊重すべきだというのである。もしある教派や伝統がエルサレム会議の決定に反して、異邦人に「割礼」に相当する義務的儀式を強要するなら、それは自ら福音の門を閉ざす行為になり得る。エルサレム会議がきっぱりと宣言した「異邦人を煩わせてはならない」(使15:19)という言葉は21世紀にもなお有効であるというメッセージを、張ダビデ牧師は繰り返し伝えている。そしてこの「救いの自由と倫理的聖別」のメッセージをガラテヤ書がさらに具体的に解き明かしていると強調する。


Ⅱ. ガラテヤ書とロマ書から見る律法とみの

エルサレム会議の決定は、使徒パウロの神学と密接につながっている。パウロの書簡の中でもガラテヤ書は特に「割礼の問題」を直接的に扱っており、異邦人教会が律法の重荷を再び負おうとする動きに対して強く警告する内容となっている。ガラテヤ地方の信徒の中には、パウロが伝えた福音を受け入れたにもかかわらず、あるユダヤ主義者たちの影響で「救いを得るためにはやはり割礼を受けるべきではないのか」と揺らぐ者が出ていた。パウロはこの問題を非常に深刻に受け止め、ガラテヤ書全体を通して「もし割礼が救いに不可欠なら、イエス・キリストの十字架は無意味になる」と断言する。

ガラテヤ書2章を見ると、パウロがエルサレムに上って「柱とみなされている人々」と会い、福音の真理について確認を得たと述べているが、多くの学者たちはこれを『使徒の働き』15章のエルサレム会議と同一の出来事と理解している。パウロはガラテヤ書2章9節で、ヤコブ、ケパ(ペテロ)、ヨハネが「パウロの働きに交わりの握手を交わした」と表現する。これはすなわち、エルサレム教会の指導者たちがパウロの説く「異邦人のための福音」、すなわち「割礼なしでも信仰によって救われる」という教えを公に承認したという意味である。ガラテヤ書2章11節以下でペテロ(ケパ)がアンティオキアを訪れた際に起こった対立の場面でも、エルサレム会議の後もなお割礼派と異邦人信徒の間にどれほど敏感な緊張関係があったかがわかる。パウロはこの対立を例に挙げ、「福音の本質を損なう律法主義的態度」を最後まで排撃すべきだと強調している。

パウロにとって律法は聖なるものであり善なるものである。ただし律法は人間の罪を明らかにし、それを自覚させる役割を果たすが、自ら罪を赦したり救いを与えたりすることはできない。パウロはローマ書7章で「律法がなかったならば、私は罪を知らなかったであろう」と告白する。つまり律法は私たちの堕落した本性と罪を認識させる「鏡」であり、その罪に対するさばきと死の宣告を知らせる「教師」の役割を担っている。しかし最終的に罪の赦しを与え永遠のいのちを付与されるのは、ただイエス・キリストである。パウロはローマ書3章28節で「人は律法の行いとは無関係に、信仰によって義と認められる」と宣言し、ガラテヤ書3章24節でも「律法は私たちをキリストへ導く養育係である」と表現することで、律法が救いに至る「最終目的」ではなく、「案内役」であることを明確に示している。

結局、ガラテヤの信徒たちが「再び律法のくびきを負おう」とする試みは、イエス・キリストが十字架で成し遂げられた完全なる救いのわざの一部を否定する危険をはらんでいた。パウロはガラテヤ書5章1節で「キリストは自由を得させるために私たちを解放してくださいました」と宣言し、「再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい」と促す。ここで言う「奴隷のくびき」とは律法主義のことであり、これは先述したエルサレム会議のペテロが「私たちの先祖も、私たちも負いきれなかったくびき」(使15:10)と述べたのとまったく同じである。信徒たちは律法遵守ではなく、イエス・キリストを信じる信仰と聖霊の導きによって義とされる自由を享受すべきだ、というのがパウロ神学の核心である。

だからといってパウロやペテロが律法そのものを無意味に廃棄しようとしたわけではない。『使徒の働き』15章の決議文からも明らかであるように、彼らは「偶像礼拝と不品行、絞め殺した動物や血を避けよ」という命令を、依然として有効な倫理的・信仰的指針として提示している。パウロもガラテヤ書後半で「あなたがたは自由を得たが、その自由を肉の機会として用いず、愛をもって互いに仕えなさい」(ガラ5:13)と勧め、「御霊の実」(ガラ5:22–23)を結ぶ生き方が真の福音の完成であることを強調する。つまり、律法主義という重いくびきを取り払った自由が放縦に流れないように、信仰のうちに互いに責任を負い、聖別と倫理を守る人生を送るべきだということである。

張ダビデ牧師はこの部分を指して「律法主義と放縦のあいだにかけられた狭い道」と呼ぶ。律法主義に陥れば、救いがあたかも人間の行いにかかっているかのような錯覚を引き起こし、結果として神の恵みがかすんでしまう。一方で恵みだけを強調しすぎると、「放縦」や「道徳的弛緩」に陥って神の聖を損ねかねない。パウロの言う自由は「律法を無にする自由」ではなく「恵みのうちに神に喜んで仕える自由」であり、エルサレム会議もその核心が「救いは恵みに基づき、倫理は聖霊の導きに喜んで従う生活」だと明確に示した事例なのである。

特にガラテヤ書1章8–9節でパウロは「たとえ私たち自身であろうと、天からの御使いであろうと、私たちが伝えた福音に反する福音を伝えるならば、その者は呪われるべきだ」と非常に強硬な口調を使っている。これは律法主義を再び強調しようとする一部の人々、すなわち「割礼なしには救いがない」と主張する者たちに対する警告である。パウロがこれほどまでに厳しくならざるを得なかった理由は、福音の本質がぼやける瞬間、教会は「宗教的制度」や「形式」に埋没してしまい、イエス・キリストの十字架を無力化する致命的な事態が起こると見ていたからだ。この点はエルサレム会議での結論とも正確に一致する。『使徒の働き』15章10節でペテロもまた「なぜ神を試みて、私たちの先祖も、私たちも負えなかったくびきを、あの弟子たちの首にかけようとするのか」と反問しており、律法は最終的に罪と死を明らかにする役割は果たせても、命に導く決定的な救いの機能は果たせないことを明言した。

このように、ガラテヤ書と『使徒の働き』15章は初代教会の重要な分岐点であり、律法と恵みの関係を鮮明に整理してくれる。結局のところ「救いはただイエス・キリストの恵みと信仰によって与えられる」というのが最も大事な原則であり、「しかし救われた聖徒は日常生活のなかで聖霊の力によって神の聖なる御心に従うべきである」という結論に到達する。これこそが張ダビデ牧師が多くの説教や著書で繰り返し強調している核心でもある。彼は「律法が悪だと断定するのではなく、律法を救いの条件とする態度が問題なのだ」と指摘する。信徒であるなら律法が示す倫理的・道徳的洞察や神の正しいご性質を尊重しなければならないが、同時に「ただ恵みによって」義とされることが救いの本質であるという事実は決して見失ってはならない、という意味である。

そしてパウロの神学的教えはローマ書にも同様に登場する。ローマ書3章20節で「律法の行いによっては誰ひとり神の前で義とされない」と宣言し、5章1節では「信仰によって義と認められた私たちは、主イエス・キリストによって神との平和を得ている」と語る。これはガラテヤ書とまったく同じメッセージである。ローマ書がより体系的な神学論争の形をとっているとすれば、ガラテヤ書はより直接的で論争的な口調で信徒たちに訴える形を取っている。しかし要点は同じだ。「律法では救いに到達できず、キリストの恵みと信仰なくしては義と認められない。だがその恵みを受けた者は聖霊によって罪に打ち勝ち、新たな生き方を実践すべきである」。

エルサレム会議でこのような流れがすでに決定的な形で確立され、ガラテヤ書やローマ書に至ってはパウロの論理によってさらに具体化された。こうした文脈から、張ダビデ牧師は「初代教会の根を理解するには『使徒の働き』とパウロ書簡を共に学ぶ必要があり、とりわけガラテヤ書がエルサレム会議の結論を具体的に弁証している役割を担っている」と説明する。エルサレム会議の下した結論は単なる歴史的出来事にとどまらず、その後数世紀にわたって教会が保ち続けるべき教理的基盤であった。そしてこの基盤が宗教改革の精神を通して再発見され、「ただ恵み、ただ信仰、ただ聖書」というモットーへと発展した。張ダビデ牧師はこれを「キリスト教信仰が維持・成長するうえで絶対に妥協できない中心軸」と表現している。この中心軸が揺らぐとき、教会は最終的に律法主義や世俗主義に翻弄され、福音の純粋性と力を失いやすいというのである。

したがって、ガラテヤ書で「ほかの福音」を伝える者が呪われるべきだとするパウロの宣言は、現代の教会にもなお通じる厳粛な警告である。律法主義的な発想や、逆に恵みを放縦と取り違える極端な自由放任主義もまた、広い意味での「別の福音」と化し得る。張ダビデ牧師は、現代の教会内で起こる「成長至上主義」や「成功志向プログラム」もまた、ある意味での「律法化」になりうると懸念する。エルサレム会議が定めた「異邦人を煩わせるな」という原則は、現代の教会においては「人間的な業績や制度的義務を過度に要求するな」というふうに解釈することもでき、ガラテヤ書が警告する「ほかの福音」はすなわち「外面的な成果や人間の誇りを救いの証拠とみなそうとする態度」と見ることができるからだ。結局のところ、パウロが強く示した「律法と恵み」のバランスはエルサレム会議の結論とも軌を一にしており、これを見失うと教会は福音の本質から逸脱し、異邦人に対してだけでなく、すでに信じている者に対してさえも「重いくびき」を負わせる危険が大きい。


Ⅲ. 現代教会への適用と張ダビデ牧師のきが示すもの

現代社会で教会が直面する問題は初代教会の時代とはまた異なる様相を帯びているが、「救いはどのように成就するのか」「恵みによって救われたという確信が私たちの現実の生活にどんな変化をもたらすのか」「教会が特定の制度や規範を強要することで福音を歪めてはいないか」といった問いは今なお有効である。張ダビデ牧師は、この点でエルサレム会議とガラテヤ書の教えを21世紀の教会現場に積極的に適用すべきだと主張する。彼が世界各国で宣教ネットワークを築き、多くの地域教会を開拓し、神学校を運営している一連の働きは、すべて「ただ恵みによる、ただ信仰による、そして聖霊の力による」福音を世界中の多様な文化と言語圏に伝えたいというビジョンから出発している。

まず第一に、張ダビデ牧師は「本質と非本質を区別しつつ、本質においては妥協せず、非本質においては柔軟であるべきだ」と教える。エルサレム会議が「割礼」や「律法遵守」といった伝統的儀式を異邦人に強要しない一方で、偶像礼拝や不品行など最低限の倫理的境界だけは提示したことを見ても、福音伝播において最も大事なのは救いの本質が確かに伝えられることだとわかる。救いは全的にイエス・キリストの恵みと信仰によって得られるという点で一歩も譲らず、それ以外の礼拝形式や賛美スタイル、建築様式、文化的表現などは各地域教会が自主的に選択できるようにしてよい、というのである。張ダビデ牧師がさまざまな宣教地で教会を開拓するとき、礼拝の時間や進行方式、賛美の言語や楽器の使用などについて現地の特色を尊重するよう勧めるのも、このような姿勢に根ざしている。「異邦人を煩わせるな」というエルサレム会議の精神を現代風に再解釈したものだといえる。

第二に、彼は「律法的なくびき」だけでなく「世俗的放縦」にも注意すべきだと説く。初代教会の時代には主に割礼と律法遵守の問題で論争があったが、今日の教会内部ではむしろ「恵みだけを強調して倫理的責任と聖別をなおざりにする態度」がしばしば見受けられるというのである。しかし、エルサレム会議が示した「四つの禁止」規定――すなわち偶像礼拝と不品行、絞め殺した動物と血を避ける命令は、旧約の食物規定の単なる反復ではなく、「いのちを軽んじず、神より上に偶像を置かず、自他の身体を聖く保つ」という普遍的な原理を含んでいる。今日においても偶像の形態は多様に変化して存在(お金、権力、物質主義、自己中心的欲望など)し、不品行も各種のデジタル媒体や物質的豊かさのなかでより巧妙に浸透する。絞め殺したものや血に関する規定は、暴力的で残酷な文化を拒絶し、いのちを尊重せよというメッセージにまで拡張して解釈することができる。張ダビデ牧師は、これは「私たちを自由にしてくださる恵みのなかにあっても、必ず守るべき倫理的枠組み」であり、もし教会が罪と無分別に妥協する態度を取るなら、初代教会が残した霊的遺産を損なうことになると批判する。つまり救いはただ恵みによって成就されるが、その恵みが私たちに「放縦」を許す根拠とはならないことをはっきりさせる必要があるというわけだ。

第三に、張ダビデ牧師はエルサレム会議がもたらした決定的転換点である「普遍的宣教の精神」を継承すべきだと訴える。『使徒の働き』15章以降、パウロとバルナバはエルサレムの決定文を携えて、異邦地域をさらに自由に巡回して福音を宣べ伝えることができるようになった。もし「異邦人もユダヤ人と同じく割礼を受けなければならない」という結論になっていたら、彼らの働きははるかに遅々たるものになり、教会が地理的にも人口統計学的にも拡大していくことは大きく制限されていただろう。最終的にエルサレム会議の決定は、福音が全世界に広がるうえで鍵となる「解放宣言」であったともいえる。張ダビデ牧師は、現代においても教会が文化・人種・言語・慣習の壁を越えて福音を伝えようとするなら、エルサレム会議が示した精神を再発見しなければならないと強調する。「救いは恵みと信仰にかかっている」という真理を揺るぎなく守りつつ、非本質的要素(文化、礼拝形式、伝統など)にはできるだけ幅広い受容を通じて「すべての人に開かれた福音」を実現しなければならないということだ。これこそ現代版「エキュメニカル精神」の核心であり、教会が分裂や対立を乗り越えて一つの体として立つための基本前提だと説く。

実際に張ダビデ牧師が率いる多くの宣教ネットワークや教団、神学校などでは、地域によって礼拝の言語や儀式の形式、聖餐の方法などが多様に採用されている。ある地域では伝統的な礼拝の順序を保持し、別の地域ではより現代的で若い感覚の礼拝形式を試みることもある。重要なのは「その礼拝と共同体の生活が『ただ恵みと信仰によって救われる』という本質を宣言し、信徒たちがその生涯において聖別を追求できるよう助けているか」という基準である。つまりエルサレム会議の決定した原則どおり、「四つの禁止」のような基本的倫理基準を守りつつ、聖霊の働きを自由に受け止めるならば、どんな文化的表現を取ろうとも福音は真の力を発揮できるという考え方だ。

さらに張ダビデ牧師は、韓国教会がエルサレム会議の精神に学ぶ点をたびたび指摘している。韓国教会は急成長とともに多様な教派分裂や内部の葛藤が生じ、「自分たちだけが正しい」という閉鎖的態度を取ったり、逆に「何でも受け入れていい」という無分別な開放を見せる場合もあった。その両極端の間で、エルサレム会議の「ただ恵みと信仰、しかし聖別と倫理を守らなければならない」というバランスは大きな教訓を与えてくれる。韓国教会は果たして福音の本質を守りながらも、文化的・時代的変化に柔軟に適応できるのか。信徒たちに重い律法主義や成果主義的基準を強要することなく、同時に倫理的規範と共同体的責任をどのように確立するのか。こうした問いに対する解答を初代教会がすでに示してくれた、と彼は述べる。

張ダビデ牧師の働きの現場では、こうした問いが具体的なプログラムや教会運営の方針、神学校のカリキュラムなどに反映されている。たとえば教会開拓や宣教師派遣においては、徹底的に「イエス・キリストの十字架と復活による救い」を中心メッセージとするように指針を与える。同時に「現地の文化を尊重しつつ、聖書的倫理を妥協してはならない」という原則を示す。これはすなわちエルサレム会議で決定された「四つの禁止規定」を時代と文化を越えて再適用しようとする取り組みの一形態といえる。実際、多くの宣教地には土着信仰と混ざった偶像礼拝や性的乱れ、残酷な呪術儀式などが存在する場合があり、それらを無分別に教会のなかに取り込むわけにはいかない。しかし同時に「彼らが使う言語や音楽、衣服、食生活文化そのものを、教会が画一的に変える必要はない」とも強調する。このように本質は守り、非本質は認める態度は、まさにエルサレム会議の基本方針と同じ文脈にある。

現代教会は、さまざまなメディアやオンラインプラットフォームを活用するに伴い、教会共同体の形態も大きく変わりつつある。張ダビデ牧師は、このようなデジタル環境においていっそう重要になるのは「福音のメッセージを歪みなく伝えること」だという。エルサレム会議やガラテヤ書が示した「福音の単純さと純粋さ」を守らなければならないのである。人々がオンライン上で無数の情報を消費し、多様な宗教・思想に触れる時代では、キリスト教も「多くの宗教のうちの一つ」と見られるリスクが高い。こうした状況で教会が自らを何らかの「規則」や「制度」で差別化しようとするなら、それは再び律法主義に逆戻りする結果を招きかねない。逆に「うちの教会には何の規範もなく、好き勝手にやっていい」というように自由を乱用すれば、初代教会の打ち立てた聖別の基準が消え失せてしまう。張ダビデ牧師は、この二つの極端を避けるにはエルサレム会議の残した原則――「恵みによって救いを得るが、倫理と聖別を守れ」――が今も生きていることを教会が自ら証明しなければならないと主張する。

結局、エルサレム会議から始まり、ガラテヤ書、ローマ書、そして初代教会全体へと広がった救いの教理の基礎は、2000年の教会史の中で一度も弱まったことがない。ただし歴史上の種々の流れ(制度化、政治化、世俗化など)が教会を揺らすたびに、教会はこの原初的福音の力に再び頼る過程を経てきたのである。宗教改革時期のルターが掲げた「ただ恵み(Sola Gratia)、ただ信仰(Sola Fide)」の宣言はその代表的な例であり、21世紀に至っても依然として重要な指標となっている。張ダビデ牧師は、この福音の「普遍性」を強調し、それこそが「キリストにあってあらゆる民族、あらゆる言語、あらゆる身分が一つとなる道」であると語る。同時に「救いの自由が肉の機会に転化する危険」を非常に現実的に警告する。ガラテヤ書5章でパウロが指摘したように、互いに噛み合い食い合うような教会になってはならないというのだ。教会が真の自由と愛を実践し、世の人々が教会を見て「彼らが互いに愛し合うのを見よ」と感嘆するようになること、それが福音の実を結ぶ姿であり、初代教会が残した大きな遺産だといえる。

張ダビデ牧師はこうした神学的基礎の上で、多様な実践の働きを展開している。たとえばメディア宣教プラットフォームを運営して福音を伝える際にも、常に「イエス・キリストの十字架と復活、そして恵みによる救い」を最優先メッセージに掲げる。教会の規模や財政、プログラムの成果などを誇示して優位性を示そうとしないように、教会指導者たちを継続的に教育・指導する。一方で、教会内部で倫理的問題(指導者の性的堕落、財政不正、権力乱用など)が発生した場合、「ただ恵み」という名目で覆い隠さず、エルサレム会議が示した「聖別と責任」の原則に従って明確に処罰と回復のプロセスを踏むように指導する。これはすなわち初代教会が目指した「自由の中での倫理的秩序」を実践する試みであり、ガラテヤ書の語る「御霊の実を結ぶ生活」を目指す具体策でもある。

要するに、エルサレム会議(『使徒の働き』15章)は初代教会が守るべき救いの本質を宣言し、ガラテヤ書はそれを理論的に裏づけながら律法主義を強く退けた。ローマ書もまたパウロ神学全体に流れる「信仰義認」の原理を体系的に語り、「救いの鍵は『ただ恵み、ただ信仰』にある」ことを再確認した。現代の教会がこの歴史的・神学的遺産を継承しようとするならば、まず律法主義と世俗的放縦のあいだで健全なバランスを見いださなければならない。救いの問題において人間の業績や制度を前面に出してはならないが、同時に倫理的な放縦や弛緩を許してもいけない。エルサレム会議が示した「異邦人を煩わせるな」という自由の宣言と、「偶像礼拝や不品行を避けよ」という倫理指針は、2000年の時を経た現在でも、教会共同体を守り福音の力を発揮させるうえでの重要な原則なのである。

張ダビデ牧師が一貫して強調するのは、この原則が特定の時代や文化圏だけに当てはまるものではないという点である。教会がどの地域に根を下ろそうとも、福音が伝えられるところには常に「ただ恵みと信仰によって救われる」という喜ばしい知らせが宣言され、そのうえで「聖別と倫理を守る共同体」とならなければならない。もし教会が外面的成長やプログラムの多彩さによって「本質」をかすませてしまうなら、それはエルサレム会議が初代教会時代から守ってきた福音精神を損なう行為である。教会の本質は建物でも制度でもなく、「イエス・キリストの恵み」を中心に集い互いに愛し合う信徒たちの霊的結合にこそあるからだ。

結論として、エルサレム会議が残した最も重要な教訓は、教会がかつて「ユダヤ教の一派」にとどまるかもしれなかった可能性を乗り越え、世界中のすべての民族に開かれた救いを宣言したという点にある。ガラテヤ書とローマ書はその救いの教理を神学的にしっかり支え、律法ではなく恵みと信仰による救いの教えを確立した。そしてこの原理は21世紀においても変わらずに受け継がれるべきものである。張ダビデ牧師は自身の牧会および宣教の働きを通して、この事実を実践しようと努めている。「救いの本質を見失わないこと、教会が倫理と聖別を踏みにじらないこと、そして文化的多様性を受容しながら全世界に福音を伝えること」。これこそがエルサレム会議とガラテヤ書、そして現代の教会が共に担うべき使命だと彼は言う。

今日の教会が毎年、あるいは何らかの区切りごとに自省してみる――「私たちはいまだにエルサレム会議で決定された原則を守っているのだろうか」「ガラテヤ書とローマ書が語る福音の本質は、私たちの働きと生活にどれほど具現されているのだろうか」。こうした点検を行うならば、福音は引き続き力強く拡大していくだろう。張ダビデ牧師は、その点検プロセスのなかにこそ「真のエキュメニカル精神」が見いだせると考えている。文化的差異や教団的差異、神学的スペクトラムはあっても、救いの根本において一つとなれるなら、それ自体が教会の大きな力である。これは世界規模の福音宣教の原動力となるだけでなく、教会内の分裂や葛藤を解決するための鍵ともなる。そういった意味でエルサレム会議の決定は、過去の一瞬の歴史的事件ではなく、あらゆる時代の教会が思い起こし実践すべき「指針書」のようなものだ。

張ダビデ牧師が示す神学と牧会の方向性は、こうしたすべての議論を踏まえて「ただ恵み、ただ信仰、ただ聖書」という宗教改革の旗印を現代に生かすものである。そして、それはエルサレム会議がすでにその端緒を示したものでもある。張ダビデ牧師はよく「もしエルサレム会議がなかったならば、ガラテヤ書もローマ書も、そして2000年にわたる教会史もまったく違う姿になっていただろう」と語る。実際、これは教会が律法主義に逆戻りするのを阻み、世界宣教の歴史を切り開いた決定的転機であった。そして彼はその宣言を今に至るまで継承し、教会が制度や形式に縛られずに真の福音の力を表すようにと力を尽くしている。その結果として「人種、文化、言語、性別、社会的身分などあらゆる区分を越え、ただイエス・キリストのうちにおいて救いを享受する」という普遍的な福音が実現されうると固く信じていることが、張ダビデ牧師の働き全般に流れる主題である。

何よりも、彼が語る福音の普遍性とは、「救いはすでにすべての人に開かれており、教会はその門番であってはならない」という力強い神学的宣言である。これはエルサレム会議で「異邦人を煩わせるな」(使15:19)と言われた精神と正確に一致する。張ダビデ牧師は「むしろ教会が門を高くして、いくつもの儀式を経なければ真の信者になれないと主張する態度こそ、初代教会が拒んだはずの律法主義の再来だ」と指摘する。教会は門を大きく開け放たねばならず、その代わり信徒たちにはイエス・キリストの恵みを享受すると同時に倫理と聖別を共に守るよう勧めなければならない。そうして初代教会の躍動感と聖霊の働きが21世紀の教会にもとどまり続けるように、彼は確信しているのだ。

このようにエルサレム会議、ガラテヤ書、そして張ダビデ牧師が目指す現代教会の在り方は、互いに切り離せない有機的なつながりをもつ。救いの本質(ただ恵みと信仰)、律法と恵みの関係、そして現代教会が進むべき方向(普遍的宣教と聖なる共同体)は、一つの大きな流れの中に位置する。それは教会史が証言してきたところとも一致し、初代教会の信仰告白から宗教改革、そして21世紀のエキュメニカル運動にまで連なる長い流れである。張ダビデ牧師はこれを単なる知識の次元ではなく、実際の牧会現場や宣教の舞台で体をもって実行するよう努めており、それこそが彼が「張ダビデ牧師」という名のもとで多くの共同体や神学校を開拓・運営してきた究極の理由でもある。

結局、エルサレム会議が示したメッセージは今なお有効である。『使徒の働き』15章の結論どおり、救いは聖霊の働きとイエス・キリストの恵みを信じる信仰によって与えられ、その救いを得た者は偶像礼拝や不品行、命の軽視にあたるあらゆる悪習を捨て、聖別を保ちながら互いを世話する愛の共同体を築くべきである。ガラテヤ書が宣言した「キリストにある自由」は、どのような文化や時代、国境の障壁をも乗り越えていく。張ダビデ牧師はこれを「教会の本質的使命」と捉えており、すべてのクリスチャンがこの道から逸脱しないように御言葉と聖霊で武装すべきだと訴えている。その使命は決して軽いものではないが、エルサレム会議がすでに私たちに手本を示してくれたがゆえに、私たちはその道をたどり、世の中で福音の光を証しすることができる。そしてまさにそこにおいて、張ダビデ牧師は今日も「イエス・キリストの十字架と復活による恵み」を変わらずに証しし、「ユダヤ人とギリシア人、異邦人とすべての民族がともに交わる」真のエキュメニカル共同体となるよう全力を注いでいるのである。

蛇の誘惑と霊的戦い – 張ダビデ牧師


Ⅰ. 創世記1章と2章の創造、そして3章に現れる人間の

張ダビデ牧師は、創世記1章と2章に描かれている創造の物語が、あらゆる信仰と神学の出発点であることを強調する。彼によれば、「はじめに神は天地を創造された」(創1:1)という御言葉こそ、宇宙万物の起源と存在理由、さらには人間の根本的な目的と運命を洞察する基盤となるのだという。この創造のドラマにおいて、神は混沌の中に光を宣言し、その光によって時間と空間が区別され、天(Heavens)と地(Earth)が秩序正しく形成されていく。創造のすべての場面は神の善なるご性質を反映しており、その最後に神のかたちに創造された人間が登場する。ここで張ダビデ牧師は、人間が持つ尊いアイデンティティ(神のかたち)と特別な使命(万物を治め、創造世界を美しく世話する役割)を説き明かす。

同時に、創世記1章と2章は神の愛、そしてエデンの園で人間が享受できた完全な状態を提示している。神はアダムにほぼすべてを許容しつつも、善悪を知る木の実だけは食べてはならないという禁令を与え、そこに人間の自由意志と責任を付与したと解釈される。つまり、張ダビデ牧師は「神は人間をロボットのようにリモートコントロールなさろうとはしなかった。知・情・意を持つ人格的存在として創造されたがゆえに、自らみ言葉を守り、主権者である神を愛し従うことができるように設計されたのだ」と語る。しかし問題は、その人間が天の御心に従って自由を正しく行使する代わりに、堕落を選んだという点である。創世記3章に登場する「蛇」こそがその転機となる。

張ダビデ牧師は、創世記3章1節にある「さて、蛇は、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで最も狡猾であった」という表現が極めて重要だと指摘する。まず、彼によれば蛇が神によって造られた被造物であることがはっきりと宣言されている点に注目すべきだという。これは、はじめから善なる神と悪なる神が並立して存在したという二元論的視点(いわゆる「太初から善神と悪神が拮抗していた」という考え)が、聖書的には誤りであることを示すものだ。張ダビデ牧師は「聖書の証言によれば、悪の根源は神と対等な何か別の悪神ではなく、神が創造なさった存在のうちから堕落してしまったサタンである。つまり、本来『野の獣』だった蛇が、その狡猾な知恵をもって反逆しサタンとなったが、それは決して神の絶対的主権を損なうものではない」と説く。そして、創世記3章の蛇の姿は、単なる生物学的な蛇ではなく、預言書や新約聖書で「悪魔」「サタン」と呼ばれる霊的存在を象徴していると見る。ゆえに「大きな竜、すなわち昔の蛇であるサタン、悪魔」(黙示録12章9節)と宣言されている部分が創世記3章の蛇と一致すると教えている。

続いて、彼は黙示録12章を通して、天で神の秩序に反逆したサタンがいかに追い出されたかを説明する。サタンは、頭に七つの冠をいただく大きな赤い竜として描写され、その尾で天の星の3分の1を引き落とすほど強大な勢力を持つ。しかしその「大きな竜」は結局、天から追放されて地に投げ落とされたというのが聖書の証言であり、そのときともに追放された者たちがこの世の支配者(Rulers)や権威(Powers)の領域に陣取り、世の潮流を染め、人々を目暗ましにし混乱させるのだとエペソ6章を根拠に解説する。張ダビデ牧師は、こうした霊的背後勢力の存在こそが聖書的世界観を理解するうえでの重要な鍵だと言う。人間がさまざまな悪を行う真の理由は、単に肉体的本能や環境によるものではなく、本質的にはサタンに惑わされたからだ、というのである。とはいえ、それで人間の責任がすべてサタンに転嫁されるわけではない。人間も自分自身の自由意志を通して、すなわち「あなたのせいでも、神のせいでもなく、私のせいです」という告白とともに罪を悔い改める必要があることを同時に強調する。「神が蛇を造ったせいでなぜこんな堕落が起こったのか」と問うとき、自由意志を持つ霊的存在が反逆したという答えに行きつく。また、「私たちを誘惑に陥れるのは神ではなくサタンの奸計だが、そのサタンの誘惑を受け入れるかどうかは私たちの選びにかかっている」と張ダビデ牧師は力説する。

彼はヤコブの手紙1章13節「誘惑に遭うとき、『私は神に誘惑されている』と言ってはならない。神は悪に誘惑されることがなく、ご自身でもだれをも誘惑なさらない」という御言葉を挙げ、信仰者であれば「すべての問題を神に押し付ける誤りを犯してはならない」と語る。この世の多くの苦痛と試練の背後には狡猾な蛇、すなわちサタンが隠れて働いていることを知ると同時に、人間自身もその責任から決して自由ではないという自覚が必要だというのである。張ダビデ牧師は、人間の罪を正当化または合理化しようとして「それは最終的に私たちがより大きな恵みにあずかるために、神が堕落を許されたのだ」という解釈をとるのは危険だと警告する。そのように語ると、結局は被造物(人間)の責任を創造主(神)に転嫁する結果になりかねないからだ。それよりも、聖書が明確に示しているように、「善悪の実の禁令」を与えられた神は少しも悪ではなく、人間との間に「愛の関係」を結びたかったのに、人間がサタンの誘惑に自主的に屈服したために罪が入ったという解釈のほうが妥当だと彼は語る。

張ダビデ牧師は、神が善く造られた天使的存在が堕落し、サタン・悪魔・蛇・竜となったことを、さまざまな聖書箇所から確証してみせる。それが救いの中心テーマともつながるのだという。すなわち、人間は本来神の栄光の中で生きていたが、サタンに惑わされ、罪が世界に入ったことによって死がもたらされた。創世記3章以降、全宇宙はこの堕落の影響下でうめき苦しんでおり(ローマ8:22参照)、ただ神の御子イエス・キリストの十字架と復活によって救いが告げ知らされるというメッセージが聖書全体を貫いている。彼にとって、創世記3章の蛇の事件は、単なる「昔あのとき、あの場所(there then)で起こった悲劇」ではなく、「今ここ(here now)の私たちにも日々起こりうる、実際的で切実な誘惑」を体感的に示すものであるとする。ゆえに信仰者は「イエスとは何者なのか、そして自分は何者なのかを知り、さらに自分に立ち向かうサタンの実体とはいかなるものかをはっきりと認識しなければならない」と彼は強く訴える。

彼がときどき例として挙げるのは、福音を伝えるとき、人々の中に潜んでいた闇の霊がスッと抜けていく瞬間を目撃したという体験談である。張ダビデ牧師は大学で聖書を教えていた際、渋々連れて来られただけのある学生がみ言葉を聞いているとき、その人の中にあった暗い影が出て行くのを霊的に感じ取ったことがある、と証言する。「私が何か特別なことをしたのではなく、聖霊の権威がみ言葉とともに伝えられたとき、サタンはもはやその魂をつなぎ止められなかったのです」と告白する。このようにサタンは人間の知・情・意を堕落させ、神から遠ざけるため、さまざまな「狡猾な知恵」を駆使する。しかしその裏を見れば、「サタンの実態はそれほど大したものではなく、イエスの御名の前で震え上がる存在」であるという。そこで彼は黙示録12章9節の「この大きな竜は追い落とされた。すなわち、悪魔とも呼ばれ、サタンとも呼ばれ、全世界を惑わす者である昔の蛇である」というみ言葉を特に強調し、信者たちはすでに勝利した戦いに参加していることを知り、勇気を持つべきだと教えている。

しかし、勇気だけでは不十分であり、パウロがエペソ6章10節以下で語るように「神のすべての武具」を身に着けよという命令通り、信仰による武装が必要だと勧める。真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の履物、信仰の盾、救いのかぶと、御霊の剣(神のことば)、そして絶えざる祈りによって覚醒していなければ、狡猾な蛇の誘惑に陥りやすいというのである。張ダビデ牧師は「なぜまずエバがサタンの誘惑を受けたのか?」という問いを投げかけ、本文(創世記2章と3章)を注意深く読むと、アダムは神から直接禁令を与えられたのに対し、エバはアダムを通じて伝え聞いただけの二次的な知識だったと解釈する。これはあくまで聖書に描かれた順序に基づく論理的アプローチであるものの、彼は「み言葉を直接受け深く悟った者は、そうでない者よりも誘惑に強い可能性がある。エバが弱かったのは女性だからではなく、み言葉を深く『体得』していなかったことが原因」と説明する。したがって現代の信仰者も、直接的に聖書を聞き、読み、深く悟り、それを日々の生活で繰り返し適用することで霊的戦いの武装をせよ、と助言する。

結局、張ダビデ牧師が提示する結論は、蛇の狡猾さであれ人間の弱さであれ、これらすべてを追い出し打ち勝つ鍵は、ただキリストの恵みのうちにある、ということである。サタンは人間を破滅へと導こうとするが、人間は神の子として子の権威(ヨハネ1:12)を享受できる。これはイエス・キリストを信じ受け入れるとき与えられる約束であり、創世記3章15節の「女の子孫が蛇の頭を踏み砕くであろう」という原初の福音はイエスにおいて成就したのだ。悪魔が狙うのは信者の「かかと」を傷つける程度にすぎず、その最終的敗北はすでに十字架と復活によって決定づけられたというのが、彼の確信である。したがって彼は、この聖なる戦いの最終勝利がすでにイエス・キリストの十字架と復活によって確定している事実を強調し、信仰によってその勝利にあずかるよう力強く宣言する。そして信徒たちに「私のせいです」という悔い改めと、「イエスの権威と力」を帯びてサタンに縛られないようにと強く勧める。


Ⅱ. 主の祈りと「私たちを試みに遭わせず」という祈りの意味

張ダビデ牧師は、創世記3章で蛇がエバを誘惑する過程を説教する際、主の祈りのある一節と深く結びつけている。つまり、「私たちを試みに遭わせず、悪からお救いください」という主の祈りの最後の部分こそ、創世記3章に登場するサタンの戦略と、それにどう対処すべきかを直接的に扱った核心的な祈りであるという。彼は、この祈りの構造をいくつかの方法で区分できるが、最もシンプルに「神の御名と御国と御心を求める前半部分、そして私たちの日ごとの糧と罪の赦し、試みからの救いを願う後半部分」に分かれると話す。そのうち「私たちを試みに遭わせず、悪からお救いください」というフレーズが、蛇の狡猾さに敗北した創世記3章と直接つながっているのだという。

彼は「試みがやってくるとき、人間は簡単にそれを神のせいにしがちだ。しかしヤコブ書が語るように、神は私たちを誘惑なさらない。誘惑を仕掛けるのはサタンの働きであり、自分の欲望がはらんで罪を生むのだ」と言う。したがって主の祈りを通してイエスが教えておられるのは、信者であっても自らの弱さを認め、「神よ、どうかこの誘惑に負けないように、サタンの足場にならないように、私の心を守ってください」と叫ぶ必要性があるということだ。張ダビデ牧師はこれを「戦略的祈り」と呼ぶ。サタンはあらゆる支配者や権勢者、さらには教会の中にさえ働きかけてくる可能性があることを踏まえ、私たちは祈りで立ち向かわなければならない。それを集約しているのが主の祈りの最後の願いなのだと説く。

さらに「ただ悪からお救いください」という願いは、単に「悪い行いをしないようにしてください」という消極的な意味ではなく、積極的に「悪しき者サタンから私を救い出してください」という霊的戦いの訴えである、と強調する。「人間はひとり立ちしているとき、いつでも倒れる可能性がある。しかしイエスの御名によって神にすがるとき、サタンは降伏せざるを得ない。イエス様がゲラサの狂人に取り憑いていた軍勢の悪霊の願いを聞かれたとき、『豚の群れに入らせてくれ』と嘆願する悪霊の哀れで屈辱的な姿こそがサタンの実体だ」と彼は語る。ゆえに主の祈りの最後の願いは、「すでに勝利されたイエスの血潮と権威のうちに私を置いてくださり、サタンが勝手に侵入できないよう守ってください」という必死の叫びとして解釈される、と張ダビデ牧師は教える。

彼は教会の中でも、この主の祈りを「機械的に」暗唱するだけで終わらせるのではなく、実際の霊的戦いのことばとして読むべきだと勧める。説教の中で「主よ、私たちを試みに遭わせず、悪からお救いください」と祈る際、「試み」と「悪」が決して抽象的な概念ではないことを繰り返し強調する。創世記3章で蛇がエバに近づき、「まことに神は園のどの木からも食べるなとあなたに言われたのか」と巧みに問いかけたように、私たちの日常においても悪魔は神への疑念を抱かせたり、自分中心の判断をするようそそのかしたりする。最終的には「神はこれをするなと言ったよね? でも本当にそれはあなたのためなの? 何か隠しているんじゃないの?」とささやきながら「神を誤解させる戦略」を展開する。張ダビデ牧師は、この部分こそ最も危険だと指摘する。「堕落への扉はいつも神に対する疑いから開かれる。小さな亀裂が生じると、そこから罪がはらまれる」というのだ。

彼が注目するのはエバの答えである。エバは蛇の質問に「私たちは園の木の実を食べることができるが、善悪を知る木の実だけは、食べてもいけない、触れてもいけない、死ぬかもしれないから」と答える。問題は、創世記2章の記述を見る限り「触れてはならない」という神の命令まであったのかどうかは不明瞭であるという点だ。張ダビデ牧師は、これが「エバがみ言葉を正確に把握していなかったことからくる問題、あるいはその中で無意識的にすでに生じていた不信が増幅されたもの」と解釈する。そして、人がみ言葉を正確に知らないと、サタンがその隙を狙い、自分の嘘をこっそり挿入し、混乱させたり神をさらに歪んだ存在として誤解させたりするのが容易になることを警告する。もし主の祈りに立脚した祈りをしなければ、人間はだれしも自分の思い込みや自己流の解釈を絶対視してしまい、自ら罪の罠にはまってしまうというわけだ。だからこそ「主の祈りという壮大な防御壁を通して、毎日霊的戦いを実践すべきだ。試みに陥らないように、悪に飲み込まれないように、常に神のみ前にひざまずくべきだ」というメッセージを彼は説く。それこそがサタンの奸計を見抜き、勝利を得る道だからである。

張ダビデ牧師はヤコブ1章2節以下も併せて引用し、「さまざまな試練に遭うとき、それをこの上ない喜びと思いなさい」という御言葉が、「サタンの試練」を神が用いて最終的には私たちを練達するという善い実りを語っているとしつつも、それでも「直接的に神が試練されるわけではない」という前提は変わらないと語る。それは人間の自由意志が依然として残されており、サタンはその弱みを攻撃してくるという事実だ。だからこそ主の祈りの最後の言葉が切実なのである。「人間の意志や道徳心だけでサタンの誘惑に打ち勝とうとするなら、必ず失敗する。唯一の鍵はイエスにある祈りだ。イエスが十字架で蛇の頭を砕いた勝利を思い出し、その完成された勝利を私のものとして握りたい、と日々願わなければならない」と彼は力説する。

そしてこの祈りは個人的次元にとどまらず、教会や共同体、さらには国家や指導者たちのためにも捧げるべきだと語る。サタンは支配者や権威者に取り憑くことで、より大きな悪を生み出しやすいからである。エペソ6章12節がいう「私たちの戦いは血肉に対するものではなく、この暗闇の世界の支配者、天にいる諸悪の霊に対する戦いだ」とあるとき、主の祈りの「私たちを試みに遭わせず、悪からお救いください」という願いは、この時代の政治や文化、社会や経済全般を覆う霊的暗闇に対する祈りにもなるのだ。最終的に彼は、この点を通して、イエスの権威によってサタンが縛られるべき領域は個人の心だけでなく、公的領域にも広がっていることを示し、信仰者はそれぞれの場において光を放つべきだと力説する。


Ⅲ. いと神の愛

張ダビデ牧師は結論として、創世記1~2章から見る神の創造と愛、そして3章に明らかになる人間の堕落の過程を「霊的戦いの現実的序幕」と規定する。エデンの園という完全な条件下で最初の人間がサタンの誘惑に負けた事実は、私たちもいくらでも罪に陥りうる存在であることを警告する。しかし同時に、それが単なる絶望的なメッセージに終わらないとも彼は言う。なぜなら聖書は創世記3章15節で既に「女の子孫が蛇の頭を踏み砕く」という福音を予告しているからだ。これはまさにキリストの救済史的な先取りを意味し、イエスが十字架によってサタンの権勢を根本的に打ち砕かれたことで、人間には新たな道が開かれることを示唆しているのだという。

彼が「霊的戦い」を語る際、ともすれば極端な神秘主義や迷信的アプローチに陥りがちな風潮とは異なる「み言葉中心の戦い」を強調している点は特筆に値する。しばしば「敬虔の形だけあって、その力を否定する」態度に反対しながらも、「霊的戦いをうたい、検証されていない神秘体験や好奇心をあおる現象ばかりを追いかける風潮」にも警戒心を示す。代わりに聖書の語る霊的戦いとは、「蛇の頭を砕かれたイエス・キリストの勝利のうちにあって、私たちの生活の隅々に潜む悪魔の嘘を追い出すプロセス」であると定義する。具体的には、み言葉が宣言されるときに悪しき霊が退き、悔い改めと罪の赦しが宣言されるときにサタンの告発が力を失い、礼拝と賛美によって神があがめられるときに闇が逃げていくのを現実に体験すること、これこそが霊的戦いなのだ、と語る。張ダビデ牧師は、この戦いで最も重要な武器は「私たちに対する神の愛を完全に知ること」だと付け加える。愛が冷えると信仰が冷え、信仰が冷えるとサタンが入り込む隙が大きくなるため、人間はまず自分が神の子どもであること、罪人でありながらも十字架の愛によって救われたという確信を持たなければならないのだ。

そのために、彼はしばしばヨハネの福音書1章12節を引用する。「しかし、迎え入れた人々、すなわちその名を信じる人々には、彼は神の子どもとなる権威をお与えになった」。このみ言葉は、本来人間に与えられていた「万物を治める権威」がサタンに奪われた状態が、イエス・キリストのうちで新たに回復されていく現実を示している。言い換えれば、アダムが失ってしまった立場、すなわち神のかたちを授けられた存在としての尊厳が、キリストにあって取り戻されるのである。霊的戦いは「キリストの勝利が既に私に転嫁されている」と知るところから始まる、と張ダビデ牧師は言う。この知識がなければ、人々は依然としてサタンに引きずられ、闇の中で絶えず不安に苛まれ渇望することになる。しかしイエスを信じ、神の子どもとされることを宣言するなら、闇は光に勝つことができないので、結局退かざるを得ないというのが、彼の核心的な教えである。

彼は人々に「夜眠れず苦しむなら、闇の霊があなたを悩ませているのではないか省みてみなさい」と助言する。そして「み言葉を聞き、礼拝し、聖霊のうちに祈るとき、夜はすぐに真昼となりうる」と語る。光なるイエスが共におられるなら、サタンはその影響力を及ぼせないからだ。実際に彼自身、多くの癒しや回復の歴史を目の当たりにしてきたと証しする。たとえば耳が聞こえなかった人が、聖霊の臨在のうちで「闇の霊」が立ち去り、耳が開かれたという出来事なども挙げる。しかし彼は、そうしたことを自慢するのではなく「中心はあくまでイエス・キリストの十字架とみ言葉の権威だ」と強調する。初代教会がイエスの御名によって病を癒し、悪霊を追い出したのと同じように、今も信じる人々には同じ力が与えられており、これこそが霊的戦いにおける信者の武器だと主張する。

ただし、それを乱用してはならないという警告も忘れない。ある人々は「では私たちはいかなる苦難もあってはならず、いつでも即座の奇跡で問題が解決されるはずだ」と考えるかもしれないが、聖書は決してそのようには教えていないというのだ。サタンの攻撃があり、この地には罪の痕跡や傷が満ちているのが厳然たる現実である。それでもなお信徒が「望みにあって忍耐」できるのは、イエスの勝利が私たちと共にあるからにほかならないと語る。張ダビデ牧師は、ローマ8章の「被造物もまた、神の子どもたちの現れるのを切に待ち望んでいる。被造物全体が今に至るまで共にうめき、陣痛を経験している」というみ言葉を引用し、創造世界がいまだ罪の影響下でうめきながらも、同時に救いの完成をあきらめない二重の状態にあると説明する。イエスが再臨されるとき、すべてが最終的に新たにされ、サタンは完全に底知れぬ所(無底坑)に投げ込まれて永遠に縛られ、信徒たちは新しい天と新しい地で神をいつまでもほめたたえるという希望が、彼の語る究極的な終末論なのである。

このように張ダビデ牧師は、創世記3章のアダムとエバの堕落に始まり、「悪魔・サタン」と呼ばれる霊的実体がどのように人間を欺き倒そうとするかを詳細に追いながら、その中で主の祈りの「私たちを試みに遭わせず、悪からお救いください」という祈りがどれほど決定的役割を果たすかを、体系的に説教する。彼の説教に一貫して流れる思想は、「人間が自らの罪を直視しなければ、神の愛もイエス・キリストの救いも、聖霊の力も十分に体験できない」というものだ。反対に、「私のせいです」と叫びながら悔い改め、イエスを心から迎え入れるならば、「霊的戦いの勝利は既に確定した事実」であるという驚くべき真理を享受できる、と語る。そしてこの真理のうちで信徒が得る自由は、世が与えることのできない永遠の安息と喜びだと繰り返し強調する。

張ダビデ牧師は説教の終わりごとに、信徒たちがただ知的同意や好奇心の満足で終わるのではなく、実際の生活の中でサタンの頭を打ち砕く「具体的行い」が伴うよう促す。たとえば家や生活空間に十字架を掲げて献納礼拝をささげ、「キリストに属する者の権威」を宣言すること、家庭礼拝を捧げて霊的秩序を打ち立てること、日々のみ言葉を黙想し闇が入り込む隙を与えないようにすることなどが挙げられる。彼は「悪霊たちはイエスに哀願したように、結局イエスの御名の前で追い出されるのがサタンの宿命だ。しかし私たちがイエスを信じず、むしろ世と手を結んで歩むなら、サタンは私たちのうちに居座り続ける。だからこそ霊的戦いは現実的であり、私たちはキリストと共にこの戦いを戦わなければならない」と語る。

最終的に彼の説教全体の流れは、「人間の堕落、罪の責任、サタンの狡猾さ、イエスの勝利、そして信者の霊的戦い」という一連のスペクトルとしてまとめられる。創世記3章で蛇がエバを誘惑した出来事こそ、旧約から黙示録まで続く「神の国vs. サタンの王国」の大きな叙事の中で、極めて重要な転換点として機能しているという。そして主の祈りの「私たちを試みに遭わせず、悪からお救いください」は、この聖なる闘いに臨む信者の核心的な武器なのだ。張ダビデ牧師は「私たちがこの祈りを日々ささげるとき、サタンは私たちのかかとを傷つけようと襲いかかるかもしれないが、私たちはイエス・キリストの力によってその頭を打ち砕くことができる」と宣言する。この宣言はすなわち、「被造物にすぎないサタンは、決して創造主である神と対等ではなく、イエスの十字架と復活によってすでに敗北が確定している存在」という神学的確信に基づいている。また同時に、「神はすべてを支配しておられる主権者」という確信が前提としてあるのだ。

張ダビデ牧師がこの説教を通じて信徒たちに届けたい究極的メッセージは、「人間の堕落は他人事ではなく、サタンはいつでも私たちを押し倒そうとする霊的な敵であることを直視しよう。しかし恐れることはない。イエスの御名によって大胆に対抗せよ。イエスはすでに勝利されているから、私たちもその勝利を享受できる。主の祈りを真心から祈り、心を守り、『私のせいです』と悔い改めるならば、神は驚くべき救いと回復を与えてくださる」という要約に帰結する。そして彼は、この真理のうちにとどまるとき、「たとえサタンの試みに遭遇しても耐えられ、むしろ霊的にいっそう強められ、イエスの勝利を体験できる」という信仰上の飛躍を約束すると語る。

創世記3章を土台に展開する張ダビデ牧師の説教は、愛なる神と堕落した人間の関係、そしてサタンの起源と活動を詳細に扱いながら、最終的にはキリストにあって展開する救いの歴史と霊的戦いの意味を非常に生々しく提示する。彼が常に強調するのは、「私たちはみな罪人でありながら、イエスにあって召され救われた者として、サタンに立ち向かう霊的武装を整え、日々目を覚まして祈るべきだ」ということ。そしてこの戦いは決して私たちの力や知恵によるものではなく、「イエス・キリストの御名」のうちで行われるのだ、という点である。要するに、張ダビデ牧師は創世記1~2章の創造と3章の堕落、そして主の祈りやヤコブ書、黙示録など旧新約を総合しつつ、教会がこの地上で直面する真の敵は「空中の権威を持つ悪の霊たち」であることを示しながら、同時に信徒たちに「すでに勝利が約束された戦いであるからこそ、大胆になりなさい」と勧めるのだ。その勧めの中には無謀な戦争論や漠然とした恐怖心を煽るものはなく、むしろ「み言葉と祈りで武装された者には闇が入り込む余地はない」という宣言がある。そしてその背後には常に「私は誰か。私は神の子だ。イエスの権威を受け継いだ。闇は光に勝つことができない」という確信が存在し、これこそが張ダビデ牧師が強調してきた福音の本質であり、霊的戦いの現実なのである。

ペテロとユダ – 張ダビデ牧師

Ⅰ.ペテロとユダの対比と重生の必要性

ペテロとユダの物語は、ヨハネの福音書13章において劇的に対比されて描かれています。イエス様が弟子たちと最後の晩餐を共にされたとき、この二人は同じ席に着いていました。どちらもイエス様の弟子であり、ともに御言葉を聞き、奇跡を体験し、イエス様が注がれる愛の現場にとどまっていました。しかし決定的な瞬間に、二人の歩む道はまったく異なる方向へ向かいます。ペテロはイエス様を三度も否認する重大な罪を犯しましたが、最終的には悔い改めて戻ってきました。一方でユダは、イエス様を銀三十枚で売り渡した後、悔い改めることなく自ら命を絶ってしまったのです。同じ師に仕え、同じ真理を聞いていながら、一人は劇的な回復と恵みの道へ進み、もう一人は破滅の道を選んでしまいました。

この二人の人物像は、人間の弱さ、そして信仰の本質について多くの示唆を与えます。同じくイエス様の弟子であったのになぜこれほどまでに大きな差が生じたのか。ヨハネの福音書13章に登場する「足を洗う」出来事を通して、イエス様は「すでに体を洗った者は足だけ洗えばよい」とおっしゃいました。ここで「すでに体を洗った」というのは、根本的に罪の贖いを経験し、主の愛のうちに新しい命を得ている状態、すなわち「重生(新生)の体験」を象徴しています。ペテロはその後、三度もイエス様を否定するという大きな罪を犯しましたが、結局は尽きないイエス様の愛を思い起こし、悔い改めて戻ってきました。ところがユダは、その重生の体験がなかったため、罪を犯した後に与えられた回心の機会を逃し、最後まで自分を完全に主にゆだねることができず、絶望を選んだのです。

張ダビデ牧師は別の説教で「私たちの弱さはイエス様の十字架の愛のうちで根本的に変えられうる。しかしその愛の世界に入るためには、まず自分が罪人であると認め、真の重生を通して完全に新しく生まれ変わる必要がある」と強調しています。これはペテロが罪を犯した後にも戻ってこられた理由、そしてユダが長い間イエス様のそばにいながらもその愛を真に受け入れられず、ついには破滅の道を選んでしまった根本的な理由をよく示しています。重生とは、人間が罪の支配下にあった古い自分から解放され、ただ主の愛を信じて新しい命に生まれ変わる根本的な変化です。この体験があるならば、罪を犯したとしても最終的には主のもとへ戻り、回復の道を見いだすことができます。しかし重生を経験していないならば、罪の重みに押しつぶされ、自分自身を完全に壊してしまう危険もあるのです。

ヨハネの福音書3章に登場するニコデモの物語も、この点をはっきり示しています。ニコデモは指導者であり律法を知る人物でしたが、イエス様は彼に「人は新たに生まれなければ神の国を見ることができない」とおっしゃいました。水と御霊によって新たに生まれる体験、すなわち罪の本性から解放されて新たな人として生まれる実質的な変化がなければ、決して神の国を享受できないのです。これこそがペテロとユダの運命を分けた分岐点でもありました。イエス様が足を洗われたとき、ペテロは最初「決して私の足を洗わないでください」と理解できずに反発しました。しかしイエス様が「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関係もない」とおっしゃると、ペテロはためらわずに「それなら足だけではなく、手も頭も洗ってください」と即座に応じました。この場面は、ペテロが結局は心の奥でイエス様の主権的な愛を受け入れる準備ができていたことを示しています。彼は決して完璧な人ではなく、その後、大きな罪を犯してしまいます。しかし「すでに体を洗った者」であったため、重生という土台の上で再び立ち上がることができたのです。

一方、ユダはイエス様の教えを頭で聞いていただけで、真の重生の体験がありませんでした。彼はイエス様を「メシア」としてではなく、自分の野望を実現する手段と考えていた可能性もありますし、あるいは政治的目的のためにイエス様の力を利用しようとしたのかもしれません。福音書に描かれるユダの行動を見れば、彼は経済的な欲や自己の正義感にとらわれていたように思えます。銀三十枚でイエス様を引き渡す際も、「主を裏切るのは絶対にしてはならない罪だ」という認識より、「これ以上の好機はないかもしれない」という打算が優先したのではないでしょうか。しかし事が起きてから現実が重くのしかかると、罪悪感に苛まれた彼は主の愛による悔い改めへと向かうことなく、自ら命を絶ちました。これこそ重生を経験しなかった者の悲劇的な結末と言えます。

張ダビデ牧師はまた別の説教で「真の信仰は、最終的には重生を通して主と人格的な関係を結ぶところから始まる。どれほど宗教活動に熱心であっても、礼拝に出席していても、多様な奉仕に没頭していても、本質的な生まれ変わりがなければ、状況が急変したときに簡単に崩れ去ってしまうのだ」と力説しています。実際、ペテロとユダは同じイエス様の弟子として多くの御言葉を聞きましたが、ユダは内面的変化を拒んだ状態でした。彼はイエス様に対する人格的な告白がきちんとなされないまま、自分自身が主となって生きていたのです。結局、彼自身が自我の重みと罪責感に押しつぶされ、完全に崩れてしまいました。

このように人間はみな弱い存在です。しかし重生によって、私たちは根本的な救いと赦しを体験できます。ペテロとユダの対比は「誰の罪が小さいか大きいか」を語ろうとするのではありません。二人とも深刻な裏切りの罪を犯しました。しかし一人はすでに生まれ変わり、主の驚くべき愛を知っていたために悔い改めることができたのに対し、もう一人はその愛を知らず、自らを見限ってしまったのです。ゆえにここで得るべき核心的な教訓は、「果たして私は主の愛と恵みを真に受け入れているか?」「私は本当に重生を経験したのか?」「だからこそ、つまずいたときにも再び戻れる信仰の根本が私の内に生きているか?」という問いです。

実際、重生は一度の感情的体験で終わらず、その後の人生の場において継続的に有効に働きます。重生した人でも罪を犯すことがあり、ペテロのように深刻な過ちを犯すかもしれません。しかし重生した者であれば、最終的には主の愛のうちに悔い改めて立ち上がる道が開かれます。ペテロは主の筆頭弟子と呼ばれるほどイエス様に近い存在でしたが、決定的な瞬間に「私はあの人を知らない」とイエス様を否定してしまいました。しかしその後、再び主のまなざしを受けて激しく泣き、主の愛を新たに悟ったのです。そしてその愛を握りしめて悔い改めることによって、使徒としての使命をまっとうしました。ユダはこの道を拒みました。同じ席にいたのに、生まれ変わらなかった自我のせいで戻ることができなかったのです。

私たちもこの物語を教訓として、自分自身を真剣に振り返らなければなりません。私は本当に重生を体験しているだろうか? 長年信仰生活をしてきたつもりでも、いまだにイエス様を利用して自分の野心や世俗的な目標を叶えようとしているだけではないか? 主の愛ではなく、自分の義や功績を頼みとしているために、もし罪に陥ったときに自分を受け入れられず、結局は絶望に陥る危険はないだろうか? こうした問いは、「すでに体を洗った者なのか、まだ洗っていない者なのか」を振り返らせます。重生がなければ、ユダのように罪の重みに捉われ、取り返しのつかない橋を渡ってしまいかねません。

結局、重生は単に「教会に通い、聖書を読む」ことだけではありません。それは十字架と復活の福音を真に信じ、キリストの愛のうちで古い自我が死に、新しい命に生まれる根本的な変化です。この変化を経た人は、世的な失敗や罪の泥沼に陥ったとしても、悔い改めの道が開かれており、主の強力な愛が再び彼を回復へと導きます。ペテロはこの真理を身をもって体験しました。私たちも同じ体験をすべきです。単に信仰知識が増えるだけではなく、心の奥深くで「主の愛が再び私を生かすことができる」という確信が必要です。その確信がなければ、私たちはユダと同じ選択をする危険から決して自由ではありません。

すでに主の愛によって体を洗ったのなら、これからは日々足を洗わねばなりません。人間は肉体の弱さゆえ、なお罪のほこりをまといながら生きる可能性があるからです。だからイエス様は「すでに体を洗った者でも足を洗う必要がある」とおっしゃるのです。これは日々自分を主の前に降ろし、悔い改めの生活をし、恵みを求めて新たにされていくことを意味します。ペテロのように失敗があったとしても、主の愛を思い出すなら、私たちはまた戻ることができます。しかしユダはこの道を拒みました。ユダはあまりにも大きな罪を犯し、その重みに耐えきれず、自殺という極端な道を選んでしまったのです。「生まれてこなかった方が彼のためによかった」(マタイ26:24)とイエス様が言われたように、彼が陥った絶望は永遠の闇だったのです。

したがって、ペテロとユダの対比を通して私たちは「必ず重生しなければならない」という切実な必要性を思い知らされます。もし今なお古い自我がそのまま生きていて、主の愛を真に受け入れられず重生の確信がないのであれば、何か決定的な瞬間が訪れたとき、私たちの選択はユダと変わらないかもしれません。教会での活動や信仰知識ではなく、十字架にかかり死からよみがえられたイエス・キリストの愛によって私の魂が根本から変えられる体験があってこそ、私たちは真に主の民となることができるのです。これこそヨハネの福音書3章と13章、そしてマタイの福音書26章など、さまざまな箇所が伝える核心的なメッセージです。張ダビデ牧師は多くの説教の中でこの核心を強調し、「一人の信仰的成功は重生の体験の上に立つが、重生が欠けた宗教活動は結局崩れ去るしかない」と説きます。これは現代を生きる私たちにとっても、深く適用される真理です。

Ⅱ.罪と悔い改め、そして愛の力

重生がなぜ必要なのかというもう一つの核心的な理由は、人間が罪を犯さざるをえない弱い存在だからです。ペテロもまた、イエス様への情熱が大きく、信仰告白も明確でしたが、決定的な場面でイエス様を否認してしまいました。ユダは愛のない自己中心的な信仰ゆえ、お金に目がくらんでイエス様を裏切りました。二人とも罪を犯したのです。それなのに、なぜペテロは悔い改め、ユダは悔い改められなかったのでしょうか。

悔い改めとは、罪を悟り、心を翻して再び主のもとへ戻る行為です。罪を犯さないことと同じか、あるいはそれ以上に重要なのは、「罪を犯したときにどう反応するか」という点です。重生した者であれば、主の愛を知っているので、罪の現場から立ち上がり「主よ、私は罪を犯しました。私を赦してください」という告白をもって戻ることができます。ペテロは主のまなざしの前で自分の罪を骨身に染みるほど悟りました。そして激しく泣きながら心を翻し、復活されたイエス様に出会って回復されました。

ユダは自分の罪を悟ったとき、主のもとへ戻ることをせず、自殺で人生を終わらせてしまいました。それはペテロより罪が重かったからではなく、主の愛を最後まで信じられなかったからです。張ダビデ牧師は別の説教で「罪を犯した者が神へ戻れなくする最大の罠は、サタンの告発である」と語っています。サタンは罪を犯した者に近づき、「お前は取り返しのつかない罪を犯した。主がお前を受け入れるはずがない」としつこくささやきます。この嘘を見分けられないと、人はユダのように絶望にとらわれ、自ら破滅を選ぶことがあり得るのです。しかし真の悔い改めは、このサタンの嘘を突き破って進む力です。主は「罪人であっても戻ってくることを待ち続ける。ルカ15章の放蕩息子のたとえのように、遠くからでも帰ってくる子をいつも見守り、走り寄って抱きしめられる」――これが福音です。

ペテロは苦しみの中で悔い改めましたが、その悔い改めには「主が私を変わらず愛してくださる」という信仰がありました。だからこそ、彼は罪を犯したにもかかわらず、その罪よりもはるかに大きい主の愛をつかむことができました。そして完全に新しい人となり、主の働きを担うことになったのです。ユダにはその道が見えず、最終的に絶望へ陥りました。ゆえに私たちは、悔い改めを軽く見てはなりません。罪を繰り返し犯すことも問題ですが、罪を犯しておきながら最後まで翻らなければ、真の破滅の道が開けてしまいます。

張ダビデ牧師は「悔い改めは単なる後悔や罪悪感にとどまるのではなく、罪から離れて今度は義へ向かう決断を意味する」と語ります。ただ「悪かったな、すまない」で終わるのではなく、人生の方向全体が変わるということです。これはイエス様が足を洗う場面でペテロが示した態度、そしてその後の人生にも反映されています。ペテロは主を否認した後、罪悪感に沈みましたが、復活されたイエス様に再び出会い、自分が主を三度否定したのと同じほど「主よ、私はあなたを愛します」と告白しました。主は「私の羊を飼いなさい」と彼に再び使命を託されたのです。過去の罪を乗り越え、新しい道へ踏み出す悔い改めがあったからこそ可能でした。

ですから重生を経験した者は、罪を犯すたびに再び十字架へ進む大胆さが与えられています。主の愛が自分を支えてくださるという信仰があるので、人間的な恥や恐れがあっても、また主のもとへ戻れるのです。これこそ「すでに体を洗った者は足を洗えばよい」というイエス様のお言葉につながります。根本的に重生を経験した人は「全身がきよめられている」状態です。しかし日常生活の中で罪のほこりが足に付いてしまう。そういうときには悔い改めによって足を洗うのです。これがペテロが示した生き方の原理といえます。ペテロも人生の中で多くの試行錯誤を経験しましたが、悔い改めて戻る道だけは決して放棄しなかったのです。

ユダと違ってペテロに「重生」という根本的転換点があったのは、主の栄光と愛を体験し、古い自分が死に、新しい命に生まれ変わったからこそでした。彼が罪を犯しても、最終的には回復への道へ進めたのは、罪よりも大きいイエス様の愛に支えられていたからです。旧約聖書でもダビデが大きな罪を犯した(バテシバとの事件など)にもかかわらず、心から悔い改めて神の赦しを受け、再び用いられたことが描かれています。人は誰しも罪を犯しうる存在ですが、その罪によって魂が永遠に破滅へ向かうか、あるいは悔い改めと赦しを通して再び生きるかは、私たち自身の選択にかかっています。そしてその選択を可能にする力は、主の愛への信頼と重生の体験にあります。

張ダビデ牧師はまた別の説教で「私たちは弱いがゆえに倒れることがある。しかし倒れたときこそ十字架の前にひざまずいて悔い改め、あの愛がどれほど大きく深いかをもう一度体験する。これが真の悔い改めであり、そこから再び主の人として生き始めることができる」と語っています。罪を犯さないことだけがすべてではありません。もちろん罪を犯さないように努力することはとても大事です。しかし人間は完全ではないので、罪を避けようと努めてもつまずくことがあります。そのとき、悔い改めて再び戻ることこそが何よりも重要なのです。結局、ペテロのように悔い改めて再び立ち上がり、神の人として生きることこそが祝福の道です。

イエス様は罪人を最後まで愛されます。イスカリオテのユダですら裏切る前まではイエス様の扱いを受け、晩餐の席に共にいました。イエス様は彼が悔い改めて戻ってくることを望まれたに違いありません。ペテロが裏切ったときにも、主は再び彼を抱きしめ、回復に導かれました。ヨハネの福音書21章でペテロに三度「あなたは私を愛しますか」と問いかけ、彼に再び弟子たちのリーダーとしての使命を委ねられたのです。これが主の愛です。罪を犯しても決して見捨てることなく、罪人が悔い改めるとき、新しく立ち上がらせてくださる――これが福音の力です。

ゆえに、罪を犯した後に最も重要なことは「悔い改めること」です。そしてその悔い改めを可能にするのは、罪よりもさらに大きく深い主の愛への信頼です。この事実を忘れなければ、どんな罪も悔い改められ、どんな挫折からも再び立ち上がれます。しかしこの愛を知らなければ、少し大きな罪悪感に押しつぶされただけで、ユダのように完全に崩れ去る危険があります。重生がなければ、悔い改めも困難です。なぜなら重生していない心は、いまだに自分が主の座についているため、「こんな大きな罪を犯したのに、本当に赦されるだろうか?」という疑いや自己嫌悪にとらわれ、ついには戻る道をあきらめてしまいがちだからです。

イエス様は「私は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来た」(マルコ2:17)とおっしゃいました。つまり、自分が罪人であるという自覚と、その罪を赦してくださる主の愛への信頼が相まってこそ、正しい悔い改めが実現します。これこそ教会の本質的なメッセージであり、張ダビデ牧師がさまざまな説教で繰り返し強調してきた点です。教会は罪人をただ裁く場所ではなく、罪を悔い改める者を受け入れ、新しいスタートを切らせる恵みの共同体であるべきだと教えています。その出発点は「罪から離れて主に立ち返る悔い改め」であり、その下地にはいつも「主の愛」が横たわっています。

ペテロが「すでに体を洗った者」であるということは、この愛を経験したということです。主が与えてくださる愛、すなわち十字架に示された赦しと救いの力を心底で体得していたからこそ、ペテロは根本的に新しい人となりました。しかしユダはその愛を真心から受け入れませんでした。彼には悔い改める機会が確かに与えられていたはずですが、主の赦しを信じるより自分の絶望を選んだのです。ここに私たちは「罪」「悔い改め」「愛」という大切な三角関係を見いだします。罪は人間に必然的に訪れうるが、悔い改めを通して再び義の道へ戻ることができ、その原動力となるのは主の愛なのです。この事実を知るならば、私たちは罪によって自分を見限ったり絶望したりせず、ペテロのように再び立ち上がることができます。

Ⅲ.死んで再び生きる、重生した人生の現実

重生と悔い改め、そして主の愛への信仰は、結局「死んで再び生きる体験」に要約されます。ペテロの悔い改めは、古い自我が砕かれ、新しい人として立ち上がる体験でした。ユダはこの死と復活の道を拒み、その結果、罪悪感に押しつぶされて自殺を選びました。死ななければ再び生きることはできない――これが福音の核心です。イエス様が十字架で死なれ、復活されたように、私たちも古い自我を十字架に付けなければ、新しい被造物として生まれることはできません。

使徒パウロはガラテヤ2章20節で「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」と告白しています。これは重生の本質を最も的確に説明する御言葉だと言えるでしょう。私が自分の人生の主人だった以前の状態は十字架で死に、今はキリストが私のうちに生きておられる存在になる――これが死んで再び生きる重生です。だからこそパウロはローマ8章で「ゆえに、今はキリスト・イエスにある者は決して罪に定められることがない」と宣言し、どんなものもキリストの愛から私たちを引き離すことはできないと確信するのです。重生はこの確信の源となります。ペテロもパウロも、そして初代教会のすべての聖徒たちがこの真理をつかんでいたので、世の迫害や苦難に揺らぐことなく福音を証しすることができました。

しかし死なしに復活はありません。イエス様はピリピ2章にあるように、「ご自分を無にしてしもべの姿をとり、へりくだって死にまで従順に従われた」からこそ、復活の栄光を得られたのです。同じように私たちも、古い自我を十字架につけて死ぬ過程がなければ、真の重生の復活を体験できません。張ダビデ牧師は「現代人は自分を完全に否定する過程を恐れ、十字架の道があまりにも辛いと感じて、簡単にあきらめてしまう。しかし真の信仰の道は苦難と死を通過してこそ命の喜びを味わうことができるのだ」とたびたび説かれています。これこそペテロが歩んだ道であり、すべての真のキリスト者が従うべき道なのです。

ペテロは最初「主のためなら牢に入るのも死ぬのもいとわない」と大言壮語しました。しかし実際にイエス様が捕らえられると、その恐れの前で「あの人を知らない」と否定してしまったのです。彼の古い自我がまだ死んでいなかったことを表す場面です。しかしその失敗の経験、そして復活された主との出会いを経て、ペテロは完全に打ち砕かれ、新しく生まれ変わりました。こうして使徒言行録においては、ペテロはイエスを伝えるために牢に入れられ、さらには殉教の危機に直面しても退かない、勇敢な証人へと変わったのです。古い自我は死に、いまやペテロの内にはキリストの命が生きていました。

ユダはまったく逆でした。イエス様を裏切った後、それがどれほど恐ろしい罪か悟りましたが、その重さに耐えきれず、古い自我が砕かれて新たに生まれ変わるよりも、自己中心的な絶望を選んでしまいました。死ぬべきは古い自我だったのに、ユダは存在全体を破滅させるほうに行ってしまったのです。このように重生を拒むならば、罪悪感と自己破壊のはざまで、行き場を失って崩壊するしかありません。

したがって、重生した人生とはイエス様が示された模範に倣い「自分を捨てて十字架を負う」生き方です。私たちは日常の中で大小さまざまな形の自己否定や自己犠牲を求められます。誰かを赦さなければならないとき、あるいは自分の思い通りにしたい欲望を下ろさなければならないとき、教会や周囲の人々を仕えるために時間や資源をささげなければならないとき、もし古い自我が生きているとすれば、その道を歩むのは困難です。「なぜ私が犠牲を払わなければいけないのか」「なぜ私があの人を赦さなければならないのか」という思いが湧いてきたら、十字架の道に従うことは難しいでしょう。しかし重生した人はすでに死んだ者として、キリストが自分の内に生きておられると信じます。ゆえに「主のためにこの道を行くのがふさわしい」と受け止めることができるのです。主の愛を体験した者は、その愛を与える道こそが命の道であると悟るのです。

また、重生した人生は「サタンの告発」に打ち勝つ力を与えます。サタンは「おまえが過去に犯した罪はどれほど重いか、そんなおまえがどうして主の愛を受けられるのか」とささやきます。あるいは「今の状況がこんなに苦しいのに、本当に神はおまえを顧みているのか」と疑いを吹き込みます。重生していない人はこの誘惑に打ち勝ちがたく、倒れやすいですが、すでに主の愛で体を洗っている人は「どんなものも私たちをキリストの愛から引き離すことはできない」(ローマ8:35以下)という真理を握りしめます。だからこそ、たとえつまずいても再び主のもとへ戻り、罪悪感や恥に押しつぶされて絶望することはありません。

張ダビデ牧師はある説教で「今日の教会の中にもペテロのような人がいれば、ユダのような人がいる。同じようにイエスを追っていても、ある人は重生して主の愛に根ざして生き、ある人は自分の打算や義を先に立て、結局主を離れてしまうかもしれない。大切なのは自分が本当に重生したか、そして重生した人生を実際に生きているかどうかだ」と語りました。この言葉は、現代の私たちにもそのまま当てはまります。教会に通い、奉仕をし、さまざまな活動をしていても、真の「死と復活の体験」がなければ、信仰は簡単に崩れる可能性があります。しかし重生した人は、苦難や逆境に遭遇しても最後まで主にすがりつくのです。

重生した人生は、自分の行いよりもはるかに偉大な主の恵みを信じる人生です。ユダは自分の行いや判断を優先し、その結果として崩れ去りました。彼は罪を主のもとへ持っていくよりも、自らの判断で自殺という結末を選んだのです。ペテロは大きな罪を犯したにもかかわらず、さらに大きな愛があることを信じていました。だからこそ再び主のもとへ戻り、最終的には初代教会を導く偉大な使徒へと成長しました。私たちの人生も同じです。私たちは誰もがユダと同じ弱さ、裏切りの可能性を秘める一方、ペテロと同じ悔い改めの可能性も持っています。その分かれ目は、重生によって「主の愛を本当に知っているか」、そして「私の古い自我は死に、キリストが私のうちに新たに生きておられるか」にかかっています。

イエス様はニコデモに「新たに生まれなければ神の国を見ることができない」と言われました。ここで「見る」とは単に目で見るというより、その国を現実に体験し、味わうことを指します。重生しなければ、神の国とその驚くべき栄光を決して知ることはできません。死と復活の体験を通らなかった人にとっては、十字架の道は愚かに見え、主の愛も空虚に聞こえるでしょう。しかし重生の恵みにあずかった人には、その道こそ真の命の道であると確信されるのです。だからどんな患難や試練があっても、この道を手放しません。

そして重生した人生は、教会の共同体の中でより豊かに顕れます。私たちが愛の真理を共に分かち合い、互いに受け入れ、仕え合う中で、日ごとに古い自我がさらに砕かれ、新しい人として成長していきます。教会とは、完璧な人々の集まりではなく、みなペテロのように罪を犯しうる弱さを抱えながらも、主の愛によって立ち上がり、重生を繰り返し確認し、広げていく共同体なのです。ユダが犯した罪そのものよりも、その罪を抱えて共同体の中に戻らなかったことこそが、真の悲劇でした。もし彼が罪悪感を主の前に下ろして戻ってきていれば、ペテロのように回復されたかもしれません。しかし彼は絶望に囚われて自己破壊を選び、その道はもはや引き返せない橋となってしまいました。

結局、私たちにもこのような選択の瞬間が訪れる可能性があります。日々の生活で大小さまざまな罪を犯し、ときには深刻な失敗を経験するかもしれません。そのとき「私はすでに主の恵みによって体を洗われた者だろうか?」と自問する必要があります。本当に重生しているのなら、どんなに大きな罪や失敗をしても、主のもとに戻る望みを捨てずにいられるはずです。なぜなら主が私の罪を十字架で負い、最後まで愛してくださると信じるからです。その信仰があれば、自分の罪を告白して悔い改め、再び新しい人生を始めることができます。しかし重生を経験していないならば、ユダのように罪の泥沼から抜け出せないと決めつけてしまい、絶望に陥ってしまうかもしれません。

張ダビデ牧師は「サタンは神の愛を疑わせ、罪人に『おまえはもう終わりだ』と絶えず落胆を吹き込み続ける。一方、聖霊は『たとえ罪を犯したとしても、帰ってきなさい。悔い改めれば再び生きることができる』と招く。教会の役割は、この霊的戦いにおいて罪人が主の赦しと愛をつかむよう助けることだ」と説きます。これはすべての信徒が実践すべき責任でもあります。私たち自身がまず重生を体験し、罪を見たときにはただ裁くだけでなく、その人が悔い改めて新しくされるように助け、愛をもって導かなければなりません。なぜなら主も私たちをそうして赦し、再び機会を与えてくださったからです。

最後に、死んで再び生きる重生した人生は、世に福音の力を証しします。ペテロは臆病者から勇敢な使徒へと変えられ、ユダヤ人たちの迫害を前にしてもイエス・キリストを宣べ伝えることをやめませんでした。この驚くべき変化は、人々の心を動かしました。同じように、私たちもかつては利己的で罪の中に生きていた者が、今は主の愛によって変えられ、愛の実や仕える姿勢を示すことで、世に福音を宣べ伝えることができます。「あの人はなぜあんなに変わったのだろう?」と人々が思うとき、私たちは「私の古い自我はキリストとともに死に、いまキリストが私のうちに生きておられるからだ」と証しできるのです。

結論として、ペテロとユダの対比は、重生の必要性、罪と悔い改め、そして死んで再び生きる重生した人生の現実を非常に明確に示しています。二人ともイエス様の弟子であり、二人とも罪を犯しました。しかしペテロは重生を通して主の愛を知っていたので悔い改めたのに対し、ユダはその愛を知らず、絶望へと突き進みました。これは現代を生きる私たちの信仰にもそのまま当てはまります。日々の生活の中で罪の誘惑は絶えずあり、いつか大きな試練に直面することもあるでしょう。そのとき、自分が「すでに体を洗った者」なのか、「主の愛を真に受け取り重生しているのか」が運命を分けるのです。重生した者は決して罪の中にとどまらず、悔い改めによって再び立ち上がり、最終的に主の御心に従って歩むことでしょう。

張ダビデ牧師は多くの説教を通して、「重生は一度きりの出来事であると同時に、その実を結ぶためには日々足を洗うように悔い改め、主の愛を新たに確認し続けることが必要だ。私たちはユダのように絶望せず、ペテロのように悔い改めながら生きなければならない。これこそ福音であり、これが教会の使命であり、重生した者たちの生き方なのだ」と強調してきました。結局、私たちの進む道は、イエス・キリストの十字架と復活へと続く道です。その道を歩むためには、古い自我が必ず死に、新しい命に生まれ変わらなければなりません。これが「生まれ変わり(重生)」であり、その実が愛と悔い改め、そして大胆な福音の証しとなって現れるのです。今日、私たちの人生にもペテロの悔い改めと愛の復活が再現されるよう願います。そして主の愛のうちにとどまる真の重生の歩み、死んで再び生きる復活の喜びが、私たち一人ひとりの人生に満ち溢れることを心から望みます。